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ザ・ハリウッド その2

2013年12月10日 22:35

あらすじは・・・

ビデオ店「ハリウッド」に新たにバイトとして入った大槻次郎。店長の高岡(竹橋団)は、落ちた売り上げを挽回するため、黄色いド派手な自転車でビデオの宅配を思いつき、次郎に宅配の仕事を任せる。

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しかし、あまりやる気のない次郎は、宅配の途中にゲームセンターでサボってばかり。

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一方、真面目な留学生のロバートは、店長に代わって新作の発注も行う優秀なバイト。

ビデオ店のもう一人の先輩には、バンドのプロデュースをしながら東京で一旗揚げる野心を抱く、伊藤ミカ(宮川サキ)。

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ロバートは謎の中国人・エレナ・フェイ(白雪)と出会い、恋仲となる。

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次郎は宅配の途中で、佐伯(藤沢薫)という映画好きの老人と出会う。佐伯は次郎に時代劇『忠臣蔵』の宅配を頼み、往年のスター・長谷川一夫、勝新太郎、市川雷蔵について「あのころの写真は、ほんまに豪華絢爛やったなあ」と熱く語る。

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『危うし!伊達六十二万石』を見て、
佐伯「このアラカンはなかなかのものやで」
次郎「アラカン?」
佐伯「嵐寛寿郎のことをアラカンと言うたんや」
次郎「ああ、キムタクみたいなものすね」


配達途中の次郎はいつも賀茂川べりでクラリネットを吹いている少女に恋心を抱くが、ただ、土手に座ってその姿を眺めているだけ。

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店長の高岡は、別れた妻(余貴美子)から、ビデオ店をハンバーガーショップへ店替えしないかとの話を持ち掛けられて悩む。

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エレナが突然日本を離れることになり、ビデオ店にロバートを訪ねに来るが、ロバートは大学の授業中。エレナは、店の棚の前で、ロバートが熱く語っていた小津安二郎『麦秋』のパッケージを手に取り、名残惜しそうに眺める。

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バイトに来たロバートに、エレナが明日、日本を立つということを伝えた次郎は「いいっすよ。どうせ帰ってもすることないですから」とロバートとバイトのシフトを代ってやり、彼女をさがしに向かうロバートに『麦秋』を渡してやる。

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ロバートは彼女のアパートの前で朝まで待っていて、そこにエレナが帰ってくる。

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二人きりの部屋に突然、警察が踏み込み、エレナが逮捕され、彼女が密入国の手引きをしていたことを知る。

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仕事をさぼって賀茂川でいつもの少女のクラリネットを聴いている次郎の元に、授業をさぼったロバートがやってきて隣に座る。

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彼女が吹く曲はベニイ・グッドマンの「メモリーズ・オブ・ユー」で、『ベニイ・グッドマン物語』の最後にこの曲が弾かれ、映画のラストでベニイが彼女にプロポーズをするとロバートは次郎に教えてやる。

ロバートは自分の部屋のカギを次郎に預け、初めてエレナと出会った時にもらった金魚の世話を頼んで、放浪の旅に出る。



ザ・ハリウッド その1

2013年12月10日 22:34

ザ・ハリウッド 監督・野村惠一 1998年


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秋の季節に思い出す一作。2011年3月に亡くなった野村恵一監督の映画と京都への思いが詰まった作品です。

舞台は、京都の白川今出川にあるビデオレンタル店「ハリウッド」。

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そこでアルバイトをする、国籍も映画の好みも違う二人の友情を中心に、映画によってつながっていく人々との触れ合いが、あたたかく描かれています。ビデオ店を舞台にした日本版「ニュー・シネマ・パラダイス」とでも言いましょうか。

本作品は、世に知られていない佳作中の佳作にして、出演者もほとんど無名の人ばかり。そして映画のタイトルも一見、インパクトに欠ける題名なのですが・・・野村監督のかつての日本のハリウッド・太秦、映画への愛情はひしひしと感じることが出来るのです。


主な登場人物は、

ビデオレンタル店「ハリウッド」に、新しくアルバイトとして入ってきた大槻次郎(喜多見英明)。高校生の時、自殺しようと遺書を書いたが、テレビで見たジャッキー・チェンの『プロジェクトA』の自転車シーンがあまりにおもしろすぎて、遺書を破り捨てたら「何だこんなものか」と思って電車に乗って家を飛び出してきたという、アクション映画好きの家出少年。

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同じビデオ店の先輩には、ロバート・スペンサー(マイケル・タバート)。ロンドンの映画館で見た小津安二郎の『麦秋』の世界にあこがれて、日本にやってきた留学生。しかし、「映画の中の日本はどこにも見つからなくて・・・」と嘆きながらも、映画への思い入れはひとしおの真面目な青年。

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店長の高岡(竹橋団)は『フィールド・オブ・ドリームス』のケビン・コスナーに憧れて、脱サラして好きだったビデオ店を始めた。しかし、「ケビン・コスナーには嫁さんついて行ったけど、俺には嫁さんも子どももついてきてくれなかった」と。
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映画はそれぞれ違うものの、映画によって人生を変えられた3人なのです。


本作『ザ・ハリウッド』の所々でモノクロ映像として挟まれるのが、ロバートが京都の街なかで、人々に好きな映画を聞き、それに応えるインタビュー集。

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人々の口から語られるのは、コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』、ジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』、溝口健二の『残菊物語』、成瀬巳喜男の『浮雲』、ジャンギャバンの『望郷』、『幸せの黄色いハンカチ』、『風と共に去りぬ』、『魔女の宅急便』、『スターウォーズ』・・・と、誰もが知る名作から、懐かしのチャンバラ、SF、アニメと様々。しかし、その人にとっては、劇中の次郎にとっての『プロジェクトA』や、ロバートの『麦秋』、店長の『フィールド・オブ・ドリームス』のように、かけがえのない作品に他ならないのです。


次郎が最後に呟く「金がなくても、こんなにたくさんの夢があれば、人生結構楽しくやっていけるよな」の言葉が、映画の持つ魅力を表しています。



岩屋山志明院 その2

2013年08月12日 19:03

この志明院が広く世に知られるきっかけとなったのは、司馬遼太郎が昭和29年8月に発表したエッセイ「石楠花妖話(しゃくなげようわ)」(未生流家元出版部発行の月刊誌『未生』初出)の存在が大きかったといえます。

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司馬遼太郎は当時、サンケイ新聞の宗教担当記者として、京都に赴任していました(金閣寺の炎上を報じたのも、当時、文化部記者だった司馬遼太郎でした)。

 六月には、全山、石楠花になるという田中院主の話をきいて、とうとう私は重い腰をあげた。
 田中院主の勧誘の内容は、全山石楠花に化すというよりも、千数百年来その寺に住みついている妖怪変化が、二十世紀後半のこんにちなお、健やかに跳梁しているという点に重点があったのだが、いくら私が物好きな新聞記者であったにしろ、そいつは少々、頂きかねた。
 志明院という寺なのである。京の古社寺の研究家でもその名を知っている人は少ないと思うが、寺伝では、少なくとも四百年前までは谷々を埋める坊だけでも四十数軒あったというから、相当な巨刹であったにちがいない。いまはただ、本坊、一宇を止めるだけ。宗派は、真言宗仁和寺派に属している。
 二日間休暇をとった。まさか、妖怪をインタビューしにゆくとはいえないから、石楠花の探勝さとガラにもないことをいった。この風流心に和して、Sという若い記者が同伴を志願してきたから、たとえいかなる妖変に遭おうともキモをつぶすなと因果をふくめ、おともを許してやった。昭和二十五年初夏、小生当時、京都で宗教担当という、新聞記者としては至ってはえばえのない仕事をやっていたころである。


司馬遼太郎が志明院の先の住職と懇意にしていたこともあり、志明院に泊まった時、怪奇現象に悩まされたというエピソードが語られているのです。

こつ然と眼前に小盆地がひらけた。四囲絶壁の中にある小学校のグラウンド程度の平地である。志明院はそこにあった。銅ぶき、白木造。一見、寺院というより鎌倉時代の武家屋敷のような構えである。意外なほど清潔な感じがした。


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田中院主によると、三種類の物の怪が出ると言い、一つは竜火、二つは天狗の雅楽、もう一つは・・・
一晩、本坊を見下ろす茶室に泊まることになった司馬遼太郎とS君でしたが、11時ごろ、障子の桟を力任せにゆする音で目が覚め、屋根の上でシコでも踏むような鳴動が聞こえ始める。
・・・そう、シコを踏んだり、障子をゆすったりする騒がしい妖怪だったのです。


また、同宿していた修験者の上田行者、田中院主とともに、四人は山頂近くにある奥の院を目標に山中を分け入り、先導する上田行者に竜火を見せてもらいます。

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結局、天狗の雅楽だけは聞くことのできなかった、司馬遼太郎とS君でしたが、

 一週間に一度は、山頂の天狗松のあたりから、いんいんと響いてくるそうだ。ショウやヒチリキの音が、あるいは高くあるいは低く、間に太鼓の音をまじえ、階調正しく演奏されるというのだが、寺より十丁下った雲ケ畑では、誰でも子供のころからこの音楽をきいているというから、まずウソではあるまい。

と、町を追われた魑魅魍魎の最後の砦としての志明院の様子がエッセイでは綴られています。

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〈雲ケ畑の林道〉

妖怪が今もいるかどうかはさておき、杉木立の中を蛇行する不便な一本道が、街の喧騒から今も妖怪を守ってくれているようで・・・60年以上前に司馬遼太郎が訪れた当時そのままの雰囲気が今も残っている、ひそやかなお寺なのでした。



岩屋山志明院 その1

2013年08月12日 19:03

賀茂川の上流、北区雲ケ畑にある志明院(金光峰寺)。
号は岩屋山で真言宗系の単立寺院です。

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白雉元(650)年に役行者が創建し、天長6(829)年に弘法大師が淳和天皇の命により再建したと寺伝では伝え、
本堂にある不動明王像は空海の開眼で、根本中院(奥院)には菅原道真の手彫りと伝える眼力不動明王像を安置。

幾多の兵火や火災で、山門を除くほとんどの伽藍が消失しましたが、境内には、歌舞伎『鳴神』で有名な鳴神上人が龍神を閉じ込めたとされる護摩洞窟など修験道ゆかりの史跡が残っています。

歌舞伎『鳴神』とは・・・
朝廷に恨みを持っていた志明院の鳴神上人が、雨を司る竜神を滝壺に封じ込め、都は干ばつ。朝廷は“雲の絶間姫”という美女を遣わし、色気に勝てなかった上人が酒に酔った際に竜神を解き放ち、雨を降らせた。


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〈寺務所(本坊)と山門〉

拝観料は300円で、山門より上の境内は写真撮影禁止ですが、苔むした石段や、巨石からなる護摩窟や神降窟は圧倒的な存在感。

伽藍は明治以降と新しいものばかりですが、まわりの鬱蒼とした森が醸す怪しげな雰囲気は、往時の面影そのままです。

鴨川の水源であることから、いにしえより皇室の勅願所として崇敬を集め、かつては一帯の山林を所有し、明治まではその寺有林の収益で運営が賄われ、勅願寺の権威を守るため、民間の寄進を拒否し、賽銭をあげることも許されなかったのだとか。

4月下旬には京都市の天然記念物である石楠花が境内を彩ります。


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〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』より〉



虚構大学 その2

2013年05月26日 21:33

昭和37(1962)年4月、深間と大隈が千田に打ち明けた夢物語から、3年後の昭和40(1965)年4月、経済学部と理学部からなる“自由経済大学”が京都上賀茂に開校し、物語は終わります。

そう、“自由経済大学”のモデルは、京都産業大学。

主人公・千田孝志は、昭和44(1969)年2月から2年間、理事長を務めた小野良介がモデルで、“お雇い学長”天野恒道のモデルは荒木俊馬です。

京都産業大学は開学2年後には経営・法・外国語の3学部を新設。名実ともに綜合大学となり、いまや9学部9研究科、学生数13,000を擁するマンモス大学となっています。


あくまで『虚構大学』はフィクションです。フィクションですが・・・

すべて政治がらみの教育事業で、その間隙に暗躍するのが、市町村から県議会、国政までをも含めた文教族議員。千田は国有林の払下げ申請をするため妻を郷里・倉吉に残し、東京と京都を奔走し、

建設会社に資金が全くないことを悟られないため、ハッタリをかまし、

文部省へ提出する設立資金の寄付申込書のため、架空の申込書を作成して、銀行にはドレッシング預金と呼ばれる粉飾決済を願い、

当時、革新陣営だった京都府政からは、たびたび校地の工事中止を迫られ、

大学開設の目途が立つと、手のひらを返したように地位や名誉を求める輩がすり寄ってきて、

大学ができるのは、自分の功績だと吹聴する紛らわしい人物が割り込んで来たり、

・・・それでも大学づくりに、ひとり邁進する千田の姿がかっこいい。


この計画で幸いだったのが、学園紛争に辟易していた市民からも少なからず“中庸を貫く大学”の需要があったこと。また団塊の世代が大量に卒業し、大学の選択に苦しんでいた高校が、独自に新設の大学計画をしていたことも、大学建設の後押しになりました。
小説中では、東山区の私立・洛東高校の校長が設立趣意書に共感し、「高校が推薦する進学希望生徒は、全員入学を許可していただきたい」との条件で多額の準備資金の醵出が決定され、大学づくりが本格的に動き始めます。
この洛東高校のモデルが東山高校で、実際、開学当初は京産大が多くの学生を受け入れることになったのでした。


『虚構大学』では魁偉で、酒癖が悪く、見栄張りで、わがままな奇人として描かれている天野学長。
そのモデルとなった荒木学長が亡くなったのが1978年。亡くなった翌年に『虚構大学』が出版されているのが、なんとも意味深長ですね。


大学史では
『京都産業大学創立に着手したのは昭和37年秋以降のことである。全く私ただひとりで走り回って運動していたので、非常に忙しく寝食を忘れるほどであったので38年3月まで全然、日誌もメモもつけていない。以下は、妻京子の備忘録をたよりに後年、つくりあげたものである』と昭和 49(1974)年6月の俊馬日記にある。大学ができ、順調に運営され基礎の固まった時点での懐旧談として、大学づくりの苦闘が語られている。
と、“世界的な宇宙物理学者”としての荒木学長の大学開設への功績がつらつらと述べられ、同大学のホームページには、“学祖”荒木俊馬についての紹介がふんだんに盛り込まれています(その扱いは、かの国の指導者や、かの宗教の名誉会長のようで・・・)。

この『虚構大学』の内容すべてが正しいとは思いませんが・・・国も学校も、正統な歴史はこのようにして築かれるのだなと、『虚構大学』の内容と大学ホームページとの対比で思わしてくれる一冊でした。


京都産業大学さん、開学に尽力した小野良介理事長ももう少し顕彰してあげてくださいナ(笑)。




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