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東向観音 蜘蛛塚 その2

2010年11月27日 00:18

東向観音の本堂の横、隣家の洗濯物が干されたその下にあるのが、蜘蛛塚、厳密には「土蜘蛛灯籠」です。

蜘蛛塚00511
〈蜘蛛塚の隣には菅原道真の母を祀る伴氏廟があります。4メートルを超える石造の五輪塔。もともとは、北野天満宮の三の鳥居西側(現在の伴氏社の場所)にあったものが、廃仏毀釈で寺の境内に移されたのです〉


そもそも、土蜘蛛ゆかりの蜘蛛塚は現在の七本松通一条の北西側にあったのです・・・。


清和院 蜘蛛塚 (拾遺都名所図会)

七本松通一条の北西側、圃の中に一丈許の塚あり、是をいふ。古へ此所に大きなる土蜘蛛棲しとなり。太平記に、北野のうしろとあり、後考あるべし。一名山伏塚といふ。太平記剣巻に曰、夏の頃源頼光瘧を病て、いかに落せども落ず。後には日毎に発りけり。おこりぬれば頭いたく身ほとをり、天にもつかず地にもつかず、宙にうかれてなやまれけり。かやうに逼迫する事三十余日にぞ及びける。ある時又大事におこりて、少し減に付て醒方になりければ、四天王の者ども看病しけるも、みな閑所に入て休けり。頼光少し夜ふけがたの事なれば、かずなる灯火のかげより長七尺許の法師するするとあゆみよつて、縄をさばきて頼光につけんとす。頼光これに驚てがばと起、何者なれば頼光に縄を付んとするぞ、悪き奴かなとて、枕に立置れたる膝丸をつ取はたと切る。四天王ども聞付て、我も我もと走りより、何事にて候と申ければ、しかじかとぞ宣ひける。灯台の下を見れば血こぼれたり。手に火をともいてみれば妻戸よりすのこへ血こぼれたり。是を追行ほどに、北野のうしろに大きなる塚あり、かの塚へ入たりければ、則塚を崩して見る程に、四尺ばかりなる山蜘蛛にてぞありける。これをからめて参りたりければ、頼光やすからざる事かな、是程のやつにたほらかされ、三十余日なやまさるゝこそふしぎなれ、大路にさらすべしとて、鉄の串にさし河原に立てぞ置ける。これより膝丸をば蜘蛛切とぞ号しける
〈天明7(1789)年刊行の『拾遺都名所図会』より 清和院 蜘蛛塚〉


上記、『拾遺都名所図会』の左下に「くも塚」と書かれているのがわかるでしょうか。


太平記によると、頼光が瘧(マラリア)を患って30日あまりもの間うなされていたところ、夜中に身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄をもって頼光を絡めとろうとします。
頼光は臥せっていたにもかかわらず、やおら起き上がり、枕元にあった名刀「膝丸」で斬りつけると、僧は逃げ去りました。
灯りの下を見ると、血がしたたり落ちています。その血痕を四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)とともに追っていくと、北野神社の南東方向にある大きな塚に辿り着きました。その塚を突き崩すと、中には4尺(約1.2メートル)の山蜘蛛がいたのです。
頼光はこれを捕えて、鉄串に刺し河原に晒しました。するとたちまち病気は回復し、土蜘蛛を討った名刀「膝丸」はそれ以来「蜘蛛切(くもきり)」と呼ばれたということです。


以上が、蜘蛛塚にまつわる伝説なのですが・・・、話はまだ終わりません。


明治になって、この蜘蛛塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片が出土し、それとともに灯籠の火袋(灯をともす空洞になった上の部分)が発見されます。これが「土蜘蛛灯籠」です。

蜘蛛塚00510
〈小さな祠のようなものに納められているのが、灯籠の火袋〉

それを貰い受けた人が、庭に飾っていたところ、たちまち家運が傾きました。これは土蜘蛛の祟りだとして人びとは恐れ、灯籠は東向観音に奉納されて今に至るのです。


東向観音05018
〈東向観音の外は、天神さんの縁日で賑わう北野天満宮の境内〉





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