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雁の寺 その3

2010年10月29日 00:32

「雁の寺」は『別冊文藝春秋』75号に掲載され、水上勉はこの作品で第45回直木賞を受賞します。
第42回の「霧と影」(1959年)、第43回の「海の牙」「耳」(1960年)につづく、3度目のノミネートで、ほぼ満票でした。
「霧と影」では日本共産党のトラック部隊が絡んだ繊研事業部事件を、「海の牙」では水俣病を題材に描き、
社会派推理作家としての地位が定着しつつあった時点での「雁の寺」の発表でした。

ただ、この小説、小僧時代の哀れだった自分のための意趣返し的意味合いの強い作品でもあったのでしょうが・・・、慈念の不気味さと無機質さが強調されているばかりで、これほど好評な理由がいまいち自分にはわかりません・・・。
むしろ、多くのエッセイで水上が書いている小僧時代の思い出の方が、より陰険で、辛く、どれだけ惨めだったかがよくわかるのです。

捨吉という自分の名前を嫌いながらも、まさか自分のほんとうの母親が乞食だったとは知らない慈念。
水上と同じく、口減らしのための仏門入りなのですが、まあ、容姿の異形はともかく、それほど修行生活が厳しかったようには伝わってはきません。
果たして、自分の師匠と後からやってきた内妻との愛欲生活が、小僧の慈念に殺意を抱かせるほどの嫌悪をもたらしたかどうかは、文中からは到底推し量ることができないのです。

孤独な京都での生活。中学での教練を嫌悪し、師匠に黙ってズル休みをする。
そんな辛い日課のあいまに描いた夢が「時間さえうまくやれば葬式の棺桶に死体を詰めて殺人ができるという思いつき」。
空想というにもあまりに空々しい夢が、現実へと向かうきっかけは、里子に犯された夜からということになるのでしょうが・・・。
「慈念はいい知れぬ里子への憎悪と愛着の混濁した衝撃に打ちのめされたのである。甘美な陶酔のあとに慈念を襲ったのは慈海へのはげしい憎悪のほかには何もなかった」という小説後半の説明だけでは、論理も感情も大きく飛躍する慈念という存在の奇怪さしか伝わってこないのですよねえ・・・。

ただし、淡々とした犯罪とは対照的に描かれる母親雁の襖絵を指を突込んで破り取るシーン。ここが唯一、慈念が人としての感情をあらわにした場面として印象的です。たとえそれが絶望の感情であったとしても・・・。
そして、「和尚さんのゆかはったとこを旅しますワ」と言って姿を消す慈念。
さらに、破り取られた襖絵と慈念の不在から、慈海の失踪は慈念と深く関係があることを悟る里子の恐怖・・・。推理小説の域を超えた文学作品へと飛翔していることは素人目にもわかります。



さて、水上勉が小僧時代を過ごした瑞春院。今では“雁の寺”として特別拝観の季節には多くの人が訪れるようです(普段は非公開です)。

雁の寺04739
〈水琴窟も有名だそうです〉

この寺での体験が小説「雁の寺」のモチーフではありますが、先にも述べたように、水上少年が目にしていたのは仏間にある「孔雀」の襖絵(今尾景年(1845~1924)作)でした。
それを雁に見立てて小説に仕上げたのですが、直木賞の受賞後、映画「雁の寺」(1962年、大映京都)を制作するにあたり、川島雄三監督と瑞春院を訪れた際、「雁」の襖絵と出会うことになるのです。
実は、小僧であった水上少年が立ち入ることの許されなかった仏間の向こう、上間の間の襖絵が「雁」だったのです。筆は「孔雀」の作者・今尾景年の弟子である上田萬秋(1869~1952)によるものでした。この奇妙な符号に水上もたいそう驚いたそうですよ。

雁の寺04741






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