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雁の寺 その2

2010年10月29日 00:19

さて、「雁の寺」です。
が、久しぶりに読んでみて、はて、こんな小説だったかな? と思っちゃいました。殺人の場面がもっと凄惨な作品だったように記憶していたのです。

雁の寺0002

水上勉の心の支えでもあった“孔雀”の襖絵と、辛い修行生活が作品の底辺に漂う鬱々とした物語です。



舞台は、相国寺の塔頭・・・ではなく、衣笠山の麓にある灯全寺派の孤峯庵。京都画壇の重鎮・岸本南嶽の描いた襖絵があったことから雁の寺ともよばれていた。
孤峯庵の檀家総代でもあった南嶽が亡くなり、その妾であった桐原里子が孤峯庵の住職・北見慈海のもとを訪れる。
南嶽は自分が死んだ後の里子のことが気に掛かり、慈海に里子の面倒を託していたのだった。
里子は32歳。小柄でぽっちゃりとしていて、胴のくびれた男好きのするタイプ。かなりの美貌であった。
50歳を過ぎても独身を通していた慈海だったが、南嶽を交え3人で酒を飲んでいた時から、里子とは妙に性があった。
南嶽の死を機に、里子は庫裡の奥に住むようになる。そして慈海は昼夜を問わず里子を求めた。
雲水時代から独身を通してきた慈海がためていたものを噴出するように。

里子には馴染めないものがあった。それが寺の小僧である13歳の慈念であった。
慈念は若狭の貧しい寺大工の倅として育ち、口減らしのため寺に預けられ、宗門の中学校へ通っていた。
学校の成績はよいが、頭が大きく、体が小さく、外見がいびつで・・・。何よりも見た目の陰気さを、里子は嫌悪し気味悪がった。

里子は、ある日、慈念を寺に紹介した若狭の住職から、慈念の出生の秘密を知る。
慈念の本名は捨吉といい、乞食女の子で、その子を貧しい大工夫婦が引き取り育てられたということを。
自分の境遇よりも惨い慈念に同情を寄せた里子。
今まで忌み嫌っていた慈念の大きな頭や、引っ込んだ眼、白眼をむいた目つきさえ、哀れでいとおしく思えた。
慈念の境遇を知った夜、里子は慈念の部屋を訪れ、羽交い締めに抱きしめた。「なんでもあげる。うちのものなんでもあげる」と。
慈念は力を入れて里子を押し倒した。

慈海が法類の源光寺に碁を打ちに出かけたきり、帰ってこない。慈念が源光寺へと使いに走るが、最近はずっと来ていないという。
そんな中、檀家である久間平吉の兄・平三郎の葬儀が迫っていた。が、慈海の行方は知れないまま・・・。
仕方なく、慈海不在のまま孤峯庵の本堂では、源光寺の宇田雪州や法類の采配でつつがなく葬儀が執り行われた。
しかし、慈海の不在が本山にばれれば一大事である。
葬儀で集まった法類たちが慈念に詳しく話を聞くと「和尚さんは寺を出て旅したいというてはった」という。

里子にとっては懸念があった。源光寺に行くといって、行っていなかった慈海。自分が裏切られる理由があるとすれば、ただ一つ。
慈念があの夜のことを言ったのだ。慈念を問い詰める里子。しかし慈念は否定する。「いいまへん。あんなこと、いえしまへん」と。

宗務会議で慈海は雲水に出たと結論づけられた。もし遁走ということになると世間の物笑いになるからだ。
しかし実は、慈海は雲水に出たのでもなく、遁走したのでもなかった・・・。

久間平三郎の葬式の前々夜。
酔って帰った慈海を黒犬のような影が足下へ飛びかかってきた。あばら骨の下に激しい痛みを感じ、百日紅の木の下で慈海は倒れた。
竹小刀をもって襲ったのは慈念だった。
床下に隠していた慈海を引きずり出し、通夜の本堂に安置されていた棺に平三郎の向きと逆に慈海を詰め込む慈念。蓋を閉め釘を打ち付け、白布を元通りに包んだ。
棺が出る時、担い手のひとりが呟いた「どえらい重たい仏やな」の言葉は、経文の流れでかき消された。





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