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岩屋山志明院 その2

2013年08月12日 19:03

この志明院が広く世に知られるきっかけとなったのは、司馬遼太郎が昭和29年8月に発表したエッセイ「石楠花妖話(しゃくなげようわ)」(未生流家元出版部発行の月刊誌『未生』初出)の存在が大きかったといえます。

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司馬遼太郎は当時、サンケイ新聞の宗教担当記者として、京都に赴任していました(金閣寺の炎上を報じたのも、当時、文化部記者だった司馬遼太郎でした)。

 六月には、全山、石楠花になるという田中院主の話をきいて、とうとう私は重い腰をあげた。
 田中院主の勧誘の内容は、全山石楠花に化すというよりも、千数百年来その寺に住みついている妖怪変化が、二十世紀後半のこんにちなお、健やかに跳梁しているという点に重点があったのだが、いくら私が物好きな新聞記者であったにしろ、そいつは少々、頂きかねた。
 志明院という寺なのである。京の古社寺の研究家でもその名を知っている人は少ないと思うが、寺伝では、少なくとも四百年前までは谷々を埋める坊だけでも四十数軒あったというから、相当な巨刹であったにちがいない。いまはただ、本坊、一宇を止めるだけ。宗派は、真言宗仁和寺派に属している。
 二日間休暇をとった。まさか、妖怪をインタビューしにゆくとはいえないから、石楠花の探勝さとガラにもないことをいった。この風流心に和して、Sという若い記者が同伴を志願してきたから、たとえいかなる妖変に遭おうともキモをつぶすなと因果をふくめ、おともを許してやった。昭和二十五年初夏、小生当時、京都で宗教担当という、新聞記者としては至ってはえばえのない仕事をやっていたころである。


司馬遼太郎が志明院の先の住職と懇意にしていたこともあり、志明院に泊まった時、怪奇現象に悩まされたというエピソードが語られているのです。

こつ然と眼前に小盆地がひらけた。四囲絶壁の中にある小学校のグラウンド程度の平地である。志明院はそこにあった。銅ぶき、白木造。一見、寺院というより鎌倉時代の武家屋敷のような構えである。意外なほど清潔な感じがした。


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田中院主によると、三種類の物の怪が出ると言い、一つは竜火、二つは天狗の雅楽、もう一つは・・・
一晩、本坊を見下ろす茶室に泊まることになった司馬遼太郎とS君でしたが、11時ごろ、障子の桟を力任せにゆする音で目が覚め、屋根の上でシコでも踏むような鳴動が聞こえ始める。
・・・そう、シコを踏んだり、障子をゆすったりする騒がしい妖怪だったのです。


また、同宿していた修験者の上田行者、田中院主とともに、四人は山頂近くにある奥の院を目標に山中を分け入り、先導する上田行者に竜火を見せてもらいます。

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結局、天狗の雅楽だけは聞くことのできなかった、司馬遼太郎とS君でしたが、

 一週間に一度は、山頂の天狗松のあたりから、いんいんと響いてくるそうだ。ショウやヒチリキの音が、あるいは高くあるいは低く、間に太鼓の音をまじえ、階調正しく演奏されるというのだが、寺より十丁下った雲ケ畑では、誰でも子供のころからこの音楽をきいているというから、まずウソではあるまい。

と、町を追われた魑魅魍魎の最後の砦としての志明院の様子がエッセイでは綴られています。

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〈雲ケ畑の林道〉

妖怪が今もいるかどうかはさておき、杉木立の中を蛇行する不便な一本道が、街の喧騒から今も妖怪を守ってくれているようで・・・60年以上前に司馬遼太郎が訪れた当時そのままの雰囲気が今も残っている、ひそやかなお寺なのでした。





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