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虚構大学 その2

2013年05月26日 21:33

昭和37(1962)年4月、深間と大隈が千田に打ち明けた夢物語から、3年後の昭和40(1965)年4月、経済学部と理学部からなる“自由経済大学”が京都上賀茂に開校し、物語は終わります。

そう、“自由経済大学”のモデルは、京都産業大学。

主人公・千田孝志は、昭和44(1969)年2月から2年間、理事長を務めた小野良介がモデルで、“お雇い学長”天野恒道のモデルは荒木俊馬です。

京都産業大学は開学2年後には経営・法・外国語の3学部を新設。名実ともに綜合大学となり、いまや9学部9研究科、学生数13,000を擁するマンモス大学となっています。


あくまで『虚構大学』はフィクションです。フィクションですが・・・

すべて政治がらみの教育事業で、その間隙に暗躍するのが、市町村から県議会、国政までをも含めた文教族議員。千田は国有林の払下げ申請をするため妻を郷里・倉吉に残し、東京と京都を奔走し、

建設会社に資金が全くないことを悟られないため、ハッタリをかまし、

文部省へ提出する設立資金の寄付申込書のため、架空の申込書を作成して、銀行にはドレッシング預金と呼ばれる粉飾決済を願い、

当時、革新陣営だった京都府政からは、たびたび校地の工事中止を迫られ、

大学開設の目途が立つと、手のひらを返したように地位や名誉を求める輩がすり寄ってきて、

大学ができるのは、自分の功績だと吹聴する紛らわしい人物が割り込んで来たり、

・・・それでも大学づくりに、ひとり邁進する千田の姿がかっこいい。


この計画で幸いだったのが、学園紛争に辟易していた市民からも少なからず“中庸を貫く大学”の需要があったこと。また団塊の世代が大量に卒業し、大学の選択に苦しんでいた高校が、独自に新設の大学計画をしていたことも、大学建設の後押しになりました。
小説中では、東山区の私立・洛東高校の校長が設立趣意書に共感し、「高校が推薦する進学希望生徒は、全員入学を許可していただきたい」との条件で多額の準備資金の醵出が決定され、大学づくりが本格的に動き始めます。
この洛東高校のモデルが東山高校で、実際、開学当初は京産大が多くの学生を受け入れることになったのでした。


『虚構大学』では魁偉で、酒癖が悪く、見栄張りで、わがままな奇人として描かれている天野学長。
そのモデルとなった荒木学長が亡くなったのが1978年。亡くなった翌年に『虚構大学』が出版されているのが、なんとも意味深長ですね。


大学史では
『京都産業大学創立に着手したのは昭和37年秋以降のことである。全く私ただひとりで走り回って運動していたので、非常に忙しく寝食を忘れるほどであったので38年3月まで全然、日誌もメモもつけていない。以下は、妻京子の備忘録をたよりに後年、つくりあげたものである』と昭和 49(1974)年6月の俊馬日記にある。大学ができ、順調に運営され基礎の固まった時点での懐旧談として、大学づくりの苦闘が語られている。
と、“世界的な宇宙物理学者”としての荒木学長の大学開設への功績がつらつらと述べられ、同大学のホームページには、“学祖”荒木俊馬についての紹介がふんだんに盛り込まれています(その扱いは、かの国の指導者や、かの宗教の名誉会長のようで・・・)。

この『虚構大学』の内容すべてが正しいとは思いませんが・・・国も学校も、正統な歴史はこのようにして築かれるのだなと、『虚構大学』の内容と大学ホームページとの対比で思わしてくれる一冊でした。


京都産業大学さん、開学に尽力した小野良介理事長ももう少し顕彰してあげてくださいナ(笑)。




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