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大雲院 祇園閣

2011年11月30日 22:46

大雲院 祇園閣

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伊東忠太の名建築として過去に一度取り上げた「祇園閣」。2011年秋の特別公開がありましたので、思わず初潜入です。

大雲院は本能寺の変で自害した織田信長と嫡男・信忠の菩提を弔うために、天正15(1587)年、正親町天皇の勅命によって烏丸二条の南(現在の烏丸御池あたり)に建てられた堂宇がその起こり。「大雲院」という寺号は信忠の法名「大雲院殿三品羽林仙巌大居士」にちなんでいます。

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〈祇園閣(1928(昭和3)年竣工)は高さ36メートル。鉄筋コンクリート造りの三層構造〉

しかし創建してすぐ、豊臣秀吉の天正の区画整理にあい天正18年には四条寺町へと移転。何度も市中の大火の災難にさらされながらも名刹として存続してきましたが、昭和になって寺の周囲の喧騒が甚だしくなり、デパート高島屋の増床に伴って土地を譲り渡し、昭和47(1972)年に現在地へと移転してきました。

大雲院の移転先は、もともと大倉財閥の創始者・大倉喜八郎の別邸「真葛荘」で、すでに大倉家の京都別邸(現在の書院)と、東山が誇る珍建築・祇園閣が建っており、それをそのまま譲り受ける格好となったのでした。

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御大典記念(昭和天皇の即位を祝う記念)として、京都が誇る祇園祭の壮観を東山で常に披露し、名所にしたいと願っていた大倉喜八郎。
伊東忠太に祇園祭の鉾そのままをモチーフとした建築物を造らせ、まさに彼の意の通り、今では東山の風景になくてはならない建物となりましたが、結局、大倉喜八郎がこの楼閣から京都の街を眺めることはありませんでした。
亡くなったのが1928(昭和3)年4月、92歳の時。そして祇園閣の完成がその二ヶ月後だったのです。


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〈鉾の頂と、入り口銅扉の左右に施された鶴は、大倉喜八郎の幼名・鶴吉と号・鶴彦にちなんで“鶴”が形作られています〉

さて、普段見ることのできない内部ですが(もちろん写真撮影は禁止)、壁画や電飾は一見の価値あり。

入り口正面には、昭和47年に寺地を移転してきた時に安置された阿弥陀像。
さらに、内部の壁一面は開創400年を記念して昭和63(1988)年に完成した敦煌の壁画の模写で彩られています。階段の手すりから生えた蓮を形取った燭台や、伊東忠太ならではの壁に設えられたガーゴイルの電飾が壁画を照らし出すさまは・・・妖しすぎ。


そして、京都一の眺望ですが・・・あいにくのモヤり・・・。

DSC02901.jpg 〈八坂の塔〉

DSC02909.jpg 〈知恩院〉

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〈伊東忠太設計の大倉家京都別邸「真葛荘」(現在の書院)〉


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境内の西には墓地があり、四条寺町から移された織田信長・信忠父子の碑と、石川五右衛門の墓があります。


DSC04486.jpg 〈織田信長・信忠父子の碑〉

DSC02936.jpg 〈織田父子の碑から眺める祇園閣〉


DSC04489.jpg 〈石川五右衛門の墓〉

石川五右衛門が三条河原で一子とともに釜茹でにされたのが文禄三(1594)年。
五右衛門が刑場に連れて行かれる途中にあったのが四条寺町の大雲院で、開山の貞安上人によって教化を受け、五右衛門が改心したという言い伝えから、大雲院に墓地があるようです。

DSC02946.jpg 〈石川五右衛門の墓から眺める祇園閣〉


ちなみに東山七条にある智積院は近世、近代を通じてたびたび伽藍を火事で焼失している災難つづきの寺院ですが・・・昭和22(1947)年の火災によって旧本堂(方丈殿)が焼失した際、当時、四条寺町にあった大雲院の本堂を譲り受け移築した建物が、現在の智積院「明王殿」です。

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〈大雲院旧本堂(現在の智積院明王殿)〉





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