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竹久夢二と京都 その2

2011年09月27日 00:39

小春
〈「小春」大正3(1914)年 「心中天網島」に題材を取り、大正3年に日本橋呉服町に開店した「港屋」で売り出された夢二オリジナルの版画〉


最初の妻・たまきの狂気性に怖じ気づき、大正5(1916)年に京都に逃れ住んだ夢二でしたが、そもそも彼と京都の関係は明治43(1910)年、夢二27歳の時に遡ります。

夢二と京都を繋いだ人物が同志社中学の学生だった堀内清なる人物。
二人は明治42(1909)年7月に、キリスト教者の酒井勝軍(さかい・かつとき)が主催した富士山頂讃美礼拝に参加した際に知遇を得て、翌年5月、夢二は堀内の招きで京都を訪れます。
その時は、御所の西にある護王神社近くの堀内家に泊まり、さらに明治45(1912)年7月からの一ヶ月間、夢二は堀内家に厄介になり京都で明治天皇の崩御を知り、明治から大正への移り変わりを過ごしたのです。
この時、キリスト教に強い関心を持っていた夢二は同志社女学校の教師で宣教師のデントンや画家の竹内栖鳳、鹿子木孟郎らを訪ね、さらに京都府立図書館館長の湯浅吉郎と親交を結び、秋に京都府立図書館で個展を開く約束を取り付けました。

現在も岡崎の同じ場所にある府立図書館。そこで開かれた「第一回夢二作品展覧会」(大正元(1912)年11月23日~12月2日)には総数137点の作品が列べられました。そして「夢二展」会期中の同時期にはすぐ近くの京都勧業館で「文展」が開かれていたにもかかわらず、入場者は「夢二展」の方がはるかに多く、毎日数千人の来場者が押し寄せ好評を博します。

白木蓮と乙女
〈「白木蓮と乙女」大正元(1912)年 京都府立図書館で開催された「第一回夢二展」で非売の札を付けられた四作品の中の一つ。モデルはたまきで、夢二初期の代表作〉


その後、東京日本橋での「港屋」の開店(大正3(1914)年10月)・・・彦乃との出会いと、たまきとの別れ・・・京都への逃避行・・・と続くのです。


大正5(1916)年11月には堀内清の家に身を寄せ、翌年の2月に清水の二年坂に家を借り、次男で幼い不二彦をたまきの元から引き取り二人で暮らし始めます。さらに4月には高台寺の南門鳥居わきに家を移り、6月には彦乃を東京から京都に呼び寄せたのでした。

彦乃 京都高台寺鳥居わきの家の二階にて 〈彦乃 京都高台寺鳥居わきの家の二階にて〉

当初は女子美術学校の学友の協力や長唄の師匠の取りなしで、遠く離れた夢二と連絡を取っていた彦乃でしたが、日本画修業のためと称し父親の目を欺いて京都にやってきたのです。
そして、八坂の塔と京都の町並みが見渡せる風情ある家での、夢二、彦乃、不二彦、三人の一年あまりにわたる短いながらも幸せな生活が始まりました。

しかし翌年、大正7(1918)年3月には彦乃の父親に事情がばれてしまい、一旦東京に連れ戻されます。そして夢二が京都府立図書館で二回目の個展「竹久夢二抒情画展覧会」(4月11日~21日)を開催していた最中に、彦乃は京都にひとり戻ってきて、以前と変わらぬ三人での生活に戻るのですが・・・同年8月から9月にかけて夢二は不二彦と二人で九州・長崎を旅し、遅れて京都を発った彦乃と別府で落ち合うも、すでに彦乃の結核は酷い状態で、即日、別府の病院に入院させられます。

10月には東京から娘の病気を知った彦乃の父親が京都に駆けつけ、すぐに京都の病院に入院させ、それ以降は夢二の見舞いも一切拒絶する始末。
彦乃との関係を断たれ傷心の夢二は11月に京都・高台寺の家を引き払い、東京本郷の菊富士ホテルに居を構え、年末には彦乃も東京の順天堂病院に転院させられて、京都での蜜月生活はあえなく終わったのでした。





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