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大文字 五山送り火 その1

2011年08月16日 23:28

大文字 五山送り火

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京都の夏の終わりを彩る「五山送り火」。
8月16日午後8時、如意ヶ嶽(大文字山)中腹の“大文字”に続き、東から西へと“妙法”(松ヶ崎)、“舟形”(西賀茂)、“左大文字”(衣笠大北山)、“鳥居形”(奥嵯峨)と五つの山に灯がともされます。

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〈鴨川の河原、特に三角州付近はすごい人です〉

お盆に帰ってきていた“お精霊さん(おしょらいさん)”をあの世へと送り届けるための神聖な一大行事で、「今川焼き」の感覚で「大文字焼き」と言うと、京都人の冷たい目線に晒されますので、ご注意を(苦笑)。

ただ、この「五山の送り火」、不思議なことにいつから始まったのかという起源が定かではないのです(あれだけ京都中から一望できる山なのに)。

江戸後期にかけて刊行されたお馴染み『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)には次のように説明されています。

都名所図会「大文字の送り火」 - コピー
毎年七月十六日の夕暮、大文字の送り火は銀閣寺の後山如意が嶽にあり。昔此麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀は一とせ回禄の時、此峯に飛去り光明を放ち給ふ。これを慕ふて本尊を元の地へ安置し、夫より盂蘭盆会に光明のかたちを作り、火をともしける。其後弘法大師大文字にあらため給ふ。星霜累りて文字の跡も圧しなば、東山殿相国寺の横川和尚に命ぜられ、元のごとく作らしめ給ふ。大の字初画の一点長さ九十二間ありといふ。冬の日雪の旦も此文字跡に雪つもりて洛陽の眺となる。これを雪の大文字とぞいひ侍る。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大文字の送り火〉
要約すると、昔、如意ヶ嶽山麓にあった浄土寺が炎上した時、本尊がこの山に飛び去って光明を放ちました。
その後、本尊を元の位置に戻しますが、光明を放った場所に盂蘭盆会の灯をともすようになります。
さらに、弘法大師空海がその灯の配列を“大”の文字に改めたのですが、時代を経るとともに、その文字の跡もなくなってしましました。
そして時は足利義政の時代、相国寺の僧・横川景三が義政の依頼によって元のように作り直した・・・と伝えています。

ちなみに、7月16日というのはもちろん旧暦のことで、「大」の文字は“人がた”をあらわし、火床が75あるのには、人のこころに潜む“七十五法”という煩悩を焼き尽くす意味があるのだとか。

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〈午後8時に灯る直前の大文字〉

そもそもの「大文字の送り火」の起源については諸説あり、平安時代、室町時代など、地元での言い伝えや関連寺院の寺伝では様々に伝えているようです。
「送り火」に関する最も古い記録は、万治元(1658)年に刊行された山本泰順著『洛陽名所集』や、寛文2(1662)年の中川喜雲著『案内者』という京都の案内記にあります。
そこで“妙法”“帆かけ船(舟形のこと)”“大文字”の三山が文献として初めて姿をあらわし、
『案内者』の中には、7月16日の夜に人々が鴨川の河原へ出て、麻幹(おがら)を松明として空に向かって放り投げ、その様子は、上は今出川口から下は三条河原にいたるまで百千の灯が、まるで瀬田の蛍火を見ているよう・・と描かれています。

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〈第一画は長さ80メートル(19床)、第二画は160メートル(29床)、第三画は120メートル(27床)。一つの火床には一束12キロの松割木五百束が井桁に組んであります〉

もともと精霊を送るために都に限らず古来の人々は、空に向かって灯を放り投げ霊を見送ったとされていて、死者への人々の想い、信仰心が、山の中腹に火を焚く行為に発展させ、さらに文字を描くようになった・・・とみるのが、「送り火」の始まりとしては正しいようです。

弘法大師の伝説や相国寺の僧・横川景三の逸話はさておき、実際、「送り火」は江戸初期から始まったというのが本当のところなのでしょう。

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〈「五山の送り火」で、点火にあたる人々は(“鳥居形”をのぞいて)、麓の寺の檀家の奉仕によって400年近く毎年行われてきました。しかし近年では檀家の世襲による奉仕だけでは人手不足のようで、ボランティアが多く参加しています〉

今では「五山の送り火」として定着していますが、
享保2(1717)年刊行の『諸国年中行事』には市原の“い”、鳴滝の“一”の字があったことが記され、江戸末期になると西山の“竹の先に鈴”、北嵯峨の“蛇”、嵯峨観空寺の“長刀”と五山の他にも数々の送り火の文字がありました。

DSC02506_R.jpg 〈出町橋より〉

そしていくつかあった送り火の山も、廃仏毀釈の影響で仏教行事が一時衰退したこともあり、その間に徐々に姿を消し、昭和初期には現在の「五山送り火」という呼称が定着するのです。

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〈送り火当日の鴨川三角州。北には妙法の「法」の文字〉





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