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六道珍皇寺 六道まいり

2011年08月09日 01:03

六道珍皇寺 六道まいり

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普段は町なかのひっそりとした寺院のひとつ・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)ですが、お盆の時期が近づくと多くの参拝者で賑わいます。
小野篁(802年―853年)が夜な夜なこの寺の井戸から冥界に通い、昼は宮中の高級官僚、夜は閻魔大王のもとに仕えていた、というのは有名な話。
今も境内の閻魔堂(篁堂)には篁自身の作と言われる不気味で迫力のある閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。

DSC03935_R.jpg 〈閻魔堂(篁堂)〉


そもそも、平安の世から鳥辺野と呼ばれる葬送の地に近いこのあたり一帯は“六道の辻”と呼ばれ、冥界の入り口にあたる場所とされていました。

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〈「六道の辻」の石碑。南に行くと、空也上人像で有名な「六波羅蜜寺」〉

六道珍皇寺の表門から松原通を西に向かうと西福寺や幽霊子育飴で有名な「みなとや幽霊子育飴本舗」があり、その辻角には「六道の辻」と刻まれた石碑が建っています。

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〈みなとや幽霊子育飴本舗〉

六道とは、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六種の冥界のことをいい、その六道への入り口であり分岐点となるのが「六道の辻」なのです。

DSC03891_R.jpg 〈表門〉

京都では古くから、盂蘭盆会の前(現在は毎年8月7日から10日までの四日間)に六道珍皇寺へ詣り、先祖の精霊が迷わず家に帰ってこられるように迎え鐘をついて、呼び戻すのです。珍皇寺では、参道で売っている高野槙(こうやまき)を買い、本堂で水塔婆に戒名を書いてもらい、「迎え鐘」をつきます。

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人で賑わう様子は『花洛名勝図会』の「六道珍皇寺 聖霊市」の中でも見受けられます(『花洛名勝図会』では閻魔堂と篁堂が別々のお堂として描かれていますが、現在は二つの像は一緒のお堂に祀られています)。

花洛名勝図会「六道珍皇寺 聖霊市」 - コピー
〈『花洛名勝図会』(元治元(1864)年刊行)より 六道珍皇寺 聖霊市〉


六道珍皇寺の縁起は定かではないものの、平安時代前期の延暦年間に、大和の僧・慶俊僧都によって建立されたのが始まりとされ、弘法大師空海が寺域を拡大し中興の祖として崇められるも、度重なる戦乱の煽りを受け荒廃。南北朝時代に臨済宗建仁寺の聞渓良聡が再興し、それ以後、建仁寺派の寺院として現在に至っています。

珍皇寺は建仁寺の南松原通にあり。〔六道と号す〕本尊薬師仏は伝教大師の作にして、開基は慶俊僧都、中興は弘法大師。篁堂には小野篁の像を安置す。〔此所より冥土へ通し道なりとぞ〕焔魔堂は東の方にあり、迎鐘は七月九日十日参詣の人此鐘を撞て聖霊を迎しむるなり。六道の辻〔本堂の前にあり〕当寺は久代平安城の葬所なり、桓武天皇延暦十三年に長岡より此京にうつらせ給ふ時、此所を諸人の葬所に定め給ふ由、遷都記に見えたり。又こゝを愛宕ともいふなり。
〔源氏物語に、桐壺の更衣を葬り、おたぎといふ所に其さまいかめしうしてと書るも、此所の事なり。河海抄には、弘法大師の聖跡として、東寺の長者官領しけるとかや。今は建仁寺の塔頭大昌院の兼帯所となる〕
北斗堂、いにしへ六道の東貳町許にあり、北辰を祭りて柱に高灯籠をかけたり、城南淀川の回船運送の目当に常夜灯をかゞやかす。熊野の謡曲に、北斗の星の曇なきと諷ふは是なり、応仁の兵火に亡ぶ。〔一年とせ金森宗和江府より上洛の時、清水寺に詣で、此灯籠の倒れて苔に埋しを寺僧に乞うけ、吾妻の奇物として今に芝の御館にあり〕
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 珍皇寺〉

DSC03900_R.jpg 〈本堂〉

ちなみに六道珍皇寺の本堂の裏にある井戸は“死の六道”といい冥界への入り口であって、出口はまた別にありました。それが、かつて嵯峨野にあった福生寺(明治初年に廃寺)の“生の六道”と呼ばれる井戸(現在は清涼寺の境内に石柱が建っています)です。
西の葬送の地・化野(あだしの)に近い福生寺には、小野篁作“生の六道地蔵尊”像と小野篁像が祀られていましたが、廃寺後は清涼寺の塔頭である薬師寺に移され、今も現存します。

どちらも葬送の地であったことから、そのような“いわれ”が伝わってきたのでしょう。

さらに、北の葬送の地として有名な蓮台野の入り口には、これも小野篁と縁の深い「千本ゑんま堂」こと引接寺(いんしょうじ)があり、ここでも“お精霊迎え”が行われています。

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〈千本ゑんま堂(引接寺)〉

千本ゑんま堂の本堂に祀られている巨大な閻魔像も小野篁が作ったと伝えられ、その迫力は珍皇寺以上・・・。

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〈千本ゑんま堂の閻魔像〉


どうして、六道珍皇寺の鐘が「迎え鐘」として、これほどまでに信仰の対象になったのかといえば・・・、
六道の迎鐘〔珍皇寺にあり。毎年七月九日十日盂闌盆会に出し、諸人に撞しめ、聖霊迎鐘と称す。此鐘は慶俊僧都これを鋳て土に埋しめ、三箇年を経て掘出すべきよし寺僧に約して入唐し侍りぬ。其後別当にてありける法師、二箇年を待ずして掘出し撞ける、其声こそ唐土に聞へけれ、慶俊僧都大に嘆じて曰、此鐘人の撞ざるに自然に鳴ざんと思ひつるに、早掘出す事の口惜さよと宣ひける。件の僧都は弘法大師の祖師なりとぞ、古事談或は今昔物語にも見へたり。今も此鐘は遠境に響く事他に並びなし、希代の霊器なり〕
今昔物語云  盂闌盆の日、まづしぎ女の、祖のため着たりける薄色の衣を盆に入蓮葉をうへに覆ふて、愛宕の寺に持参りてふし拝み泣拝み泣去にけり。人あやしみてこれを見れば、蓮葉にかくぞ書たりける。
       たてまつる蓮のうへの露ばかりこれを哀と三世の仏も
〈『拾遺都名所図会』(天明7(1787)年刊行)より 六道迎鐘〉

上記の『拾遺都名所図会』で語られている通り、『古事談』や『今昔物語』にもこの「迎え鐘」の逸話が残っています。この鐘は六道珍皇寺の開基・慶俊僧都が作らせたものですが、僧都が中国の唐に赴く際に、この鐘を三年の間、地中に埋めておくことと寺僧に命じて旅立ちました。ところが寺を預かっていた別当が二年を待たずに掘り出して、鐘をついたところ、唐にいた慶俊僧都の耳にも届いたのです。そして僧都は悔しがります。もし、あの鐘を三年間地中に埋めていたならば、その後、人がつかなくても自然と鳴ったのに・・・と。しかし、唐までも響いたこの鐘は希代の霊器に違いなく、この鐘の音は冥界まで届いているだろうということで、「迎え鐘」となったのです。

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〈六道珍皇寺の「迎え鐘」〉


なお、「迎え鐘」に対して、「送り鐘」で有名なのが、寺町三条を上がった矢田寺の「送り鐘」です。





コメント

  1. | |

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  2. t.okuno | URL | -

    oharaさんへ。

    開店休業のブログを見ていただき、ありがとうございます。

    発見されてキレイになったのはお聞きしていますが、まだ見られていないんです。
    ちょっと余裕が出来て、京都に戻れれば、ぜひ見に行きたいです。

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