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隨心院 その2

2011年10月16日 23:53

隨心院は、数々の小野小町伝説と、“雨僧正”と呼ばれた開基・仁海にまつわる逸話が有名です。


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〈小町化粧井戸(小町姿見の井戸)〉

小野小町が朝夕、顔を洗ったという井戸。境内の南西角にひっそりとあります。


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〈文塚〉

境内の東、雑木林の中に佇むのが「文塚」。小野小町に寄せられた千束の恋文を埋めたといわれる塚です。


隨心院の仏間には、小町ゆかりの「文張地蔵」と「卒塔婆小町坐像」が祀られています。

「文張地蔵」とは、小町自身が彼女に寄せられた恋文を下貼りにして作ったとされる地蔵菩薩像。

「卒塔婆小町坐像」は小町晩年の姿で有名な坐像です。小野小町の生涯はあまり多くの謎につつまれていて、出生地も墓地も定かではありません。しかし晩年の姿を偲ぶものとして有名なのが、この隨心院にある小町百歳の時の姿をあらわしているという「卒塔婆小町坐像」と、京都市左京区静市にある小町寺(補陀洛寺)の「小野小町老衰像」でしょう。

なお、文張地蔵と卒塔婆小町像が安置されている仏壇の前の障壁画は、「極彩色梅匂小町絵図」という題の小町の一生を描いたグラフィックアート。「だるま商店」という若手芸術家の描いた斬新なものですが・・・名前も知らない日本画の大家が描く地味な障壁画に比べれば、格段におもしろいですね。


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〈小野小町縁の榧(かや)の実〉

「深草少将が百夜通いの折、榧の実を糸に通して日を数えたと伝えられ、実の上部、左右に糸を通した跡が残っている」と説明書きには書いてありましたが・・・、何度か移転を繰り返した寺に、しかも1100年前の榧の実が残ってるわけが・・・ってツッコミはなしです(苦笑)。


深草少将の“百夜通い”とは・・・、

小野小町を愛した深草少将に小町は冷たく、彼女は条件として「私の元へ百日間通い続けたら結婚しましょう」とその場を取り繕います。しかし少将は彼女の元に通い続け、その証拠として小町邸の門前にあった榧の木の実を、毎夜、小町の元へと差し出しました。次第に小町も少将のことが気になり、百日目の夜を心待ちにしていました。
ところが、雪の降る九十九日目の夜、門前に辿り着いた少将は疲れ切って、そのまま倒れて亡くなってしまった・・・という悲哀の物語です。
しかしそもそも、深草少将は伝承上の人物で、実在はしません。鎌倉時代に能の世阿弥が創作した物語に登場する人物なのです。



DSC03874_R.jpg 〈請雨本尊石〉

「元慶元(877)年、小野小町井戸にて、一身上人が雨を祈った時の本尊石で中心の梵字は仏の種字(しゅじ)である」・・・らしいですが、一身上人っていったい誰?



隨心院の前寺名「牛皮山曼荼羅寺」の由来。

曼荼羅寺の開基・仁海は、夢の中で、亡き母が牛に生まれ変わっていることを知ります。
その牛を鳥羽に尋ね求めてやっと見つけた彼は、大切に育てていました。ところが日なくして牛は亡くなり、悲しんだ仁海がその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊にしたことにちなんで、「牛皮山曼荼羅寺」となったのです。
そして曼荼羅寺が隨心院となった後も、隨心院の山号は「牛皮山」のままつづいている・・・と。


DSC03825_R.jpg 〈仁海供養塔〉

また仁海は別名“雨僧正”とも呼ばれていました。
宮中からの帰依も深かった仁海のもとに、京都の神泉苑での雨乞いの勅命が九度ももたらされましたが、そのたびに雨を降らせることが出来たことに由来します。


DSC03828_R.jpg 〈榧(かや)の大木(小町榧)〉

仁海供養塔の後ろにある巨大な榧の大木は、別名“小町榧”です。





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