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泉涌寺 その1

2011年10月08日 01:32

東山三十六峰の南端・月輪山の山麓にたたずむ泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山。
皇室の菩提寺として、また歴代天皇陵のあることから「御寺(みてら)」と呼ばれています。

都名所図会「泉涌寺」 - コピー
〈『都名所図会』安永9(1780)年刊行より 泉涌寺〉

寺のそもそもの起源は定かではないものの、天長年間(824年―834年)に弘法大師空海がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来しているのだとか。
その後、斉衡2(855)年に藤原緒嗣によって仙遊寺として再興され、さらに鎌倉時代の建保6(1218)年に月輪大師・俊芿(しゅんじょう)がこの地の寄進を受けて大伽藍を造営。嘉禄2(1226)年に伽藍の造作が完成した時に寺の一角から湧き水が出て、泉涌寺に名を改めた・・・ということです。


月輪大師・俊芿には後鳥羽・順徳上皇をはじめ、北条政子、北条泰時など多くの公家や武家が帰依し、貞応3(1224)年、後堀河天皇が皇室の祈願寺と定められたことから、皇室とのつながりが色濃くなります。

そして後堀河天皇の息子であった四條天皇の陵墓は泉涌寺の寺域に築かれ、江戸時代の後陽成・後水尾天皇から幕末の仁孝天皇にいたる歴代天皇が「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名付けられた陵墓に葬られて、皇室の香華院(先祖を祀る寺)「御寺」と尊称されてきたのです。
ちなみに「月輪陵」を中心に、後堀河天皇の「觀音寺陵」と孝明天皇の「後月輪東山陵」もすぐ近くにあります。


DSC03302_R.jpg 〈大門〉

なんといっても泉涌寺の見どころは大門から仏殿を望む光景です。伽藍全体が参道から沈み込んでいる景色は、そうお目にかかれるものではありません(代表的なところでは比叡山の根本中堂でしょうか)。

DSC03309_R.jpg
〈参道から仏殿を望む〉

泉涌寺の伽藍も残念ながら応仁の乱によってほぼ全焼し、江戸期以降の建物がほとんどです。


DSC02134_R.jpg 〈仏殿〉

伽藍中央にそびえる「仏殿」は、寛文8(1668)年に四代将軍・徳川家綱の援助で再建されたもの。一重もこし付入母屋造りで唐様建築の代表作・・・らしいです。
本尊は運慶が作ったとされる過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の三体の如来像が安置されていますが、この日は一番左の過去をあらわす釈迦如来像が不在でした・・・。

DSC03316_R.jpg
〈左が「仏殿」で、右が「舎利殿」〉


仏殿の後ろにあるのが「舎利殿」です。

DSC02142_R.jpg 〈舎利殿〉

慶長年間に建てられた京都御所の建物を寛永年間に移築再建したもので、この舎利殿の中には“仏牙舎利”・・・つまり、“釈迦の遺歯”が納められています。
俊芿の弟子・湛海が安貞2(1228)年に中国の南宋慶元府の白蓮寺から請来してきたものなのです。
この仏舎利は、三国伝来の仏牙舎利と呼ばれ、印度・兜卒天・中国に伝わったとされ、特に歯の遺骨は説法をする口にあたることから尊い舎利だと重宝がられていました。


そして世阿弥が作ったとされる謡曲「舎利」の舞台は、まさにここで、泉涌寺の仏牙舎利のありがたさが語られています。

謡曲「舎利」の内容は・・・、
出雲国の僧が都へ上り、中国から渡ったという十六羅漢や仏舎利を見ようと泉涌寺にやって来ます。
そしてありがたい仏舎利を拝んでいると、寺の近くに住むという男がやってきて並んで一緒に拝んできました。
すると突然、空が曇り雷鳴が轟き、男の顔がみるみるうちに鬼に変わったのです。
「この舎利を欲していた足疾鬼の執心である」と言い、鬼は仏舎利を奪って、舎利殿の天井を蹴破り、虚空に飛び去ってしまったのです。
旅の僧は慌てますが、駆けつけた寺の僧から「釈迦入滅の際、足疾鬼という外道が釈迦の歯を盗んで逃げたが、毘沙門の弟の足の速い韋駄天が取り返した」という話を聞きます。
そして二人が韋駄天に祈ると、韋駄天が現れて足疾鬼を追い詰め仏舎利を取り返した・・・という話です。





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