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仁和寺 その2

2011年08月30日 00:28

鐘楼と御影堂の間にひっそりと位置しているのが石造りの不動明王像。通称、「水掛不動」です。

DSC03421_R.jpg 〈水掛不動〉

この不動明王像は、かつて京都堀川の一条戻り橋が大洪水で流され、その復旧の時、橋の下から取り出されたもの。

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そしてこの像の「仁和寺に帰りたい」とのお告げによって、境内の現在地に祀られ、諸願成就、特に幼児の難病平癒に霊験あらたか、なのだとか。


仁和寺に付随する名所として忘れてはならないのが「御室八十八ヶ所霊場」。

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これは第二十九世門跡・済仁法親王が文政10(1827)年に、遠く四国八十八箇所を巡拝できない都の人々のために、各札所の砂を持ち帰らせてつくった霊場巡りなのです。

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仁和寺境内裏の成就山の約3キロメートルにおよぶ山沿いに、小さな八十八のお堂を設けて持ち帰らせた砂を埋め、四国霊場を再現してあります。

DSC03434_R.jpg 〈第一番札所〉

DSC03444_R.jpg 〈第八十八番札所〉

近年までは幼稚園児や小学生の遠足、また手頃なハイキングコースとして人気がありましたが・・・今は閑散としているようで、しかも・・・、

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「まむしがいます ちゅういをしてください」の貼り紙や、不審者の出没を知らせる貼り紙が・・・。


さて、江戸初期の仁和寺は多くの前衛芸術家が集った場所でもありました。尾形光琳・乾山兄弟、野々村仁清らが門前に居を構え、仁和寺の「遼廓亭」(非公開)は光琳の住居を移築した建物です。また、仁和寺に出入りしていた野々村仁清の「仁」は仁和寺から字をとったのだとか。


仁和寺は古典文学にもたびたび登場し、その中で最も有名なのは吉田兼好(兼好法師)の『徒然草』でしょう。
吉田兼好が徒然草を執筆していた当時、草庵は双ヶ岡にあり、伊賀で死去した兼好の遺志に従って、亡骸は双ヶ丘二ノ丘西麓辺りに葬られたと伝えられています。その後、江戸中期には双ヶ岡の東麓にある長泉寺に墓が移されたといい、同寺の境内には、兼好の墓と伝わる「兼好塚」が今も残っています。

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〈仁王門から眺める双ヶ岡(雙ヶ岡)〉

『徒然草』で仁和寺の法師をとりあげた滑稽譚で有名なのが第52段と第53段。

第52段の「仁和寺にある法師」では、年老いた法師が、初めて石清水八幡宮に参拝するものの、肝心の山頂にある本殿には参らず、下の末社のみを参拝して帰ったという話。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。」でくくられる『徒然草』でも最も有名な教訓譚です。

第53段の「これも仁和寺の法師」は、宴席で酔った法師が、酔狂のあまり足鼎を頭に被って困る話です。
無理して頭に突っ込んだため鼎がなかなか抜けず、鼎を割ろうと思っても硬くて割れません。当人達は大騒ぎで鼎をかぶったまま医者に行きますが、途中で出会う人々には失笑される始末。結局、医者にもどうすることも出来ず、再び仁和寺に帰って、どうにでもなれと力任せに引っ張ると、耳や鼻が欠けたものの鼎は抜けて、命拾いをしたのでした。

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〈双ヶ岡(雙ヶ岡)から見下ろす仁和寺の境内〉

吉田兼好も双ヶ岡からこのように仁和寺を見下ろし、格式の高い門跡寺院であるからこそ、世間知らず揃いの僧侶を、からかい半分で面白おかしく書き綴ったのでしょう。


謡曲『経正』の舞台も仁和寺です。

登場人物の平経正は、清盛の甥にあたり、また熊谷直実に討たれ能や謡曲の『敦盛』として有名な平敦盛の実兄でもあります。
経正は幼い頃から第五世仁和寺門跡の覚性法親王に仕えていて、法親王から仁和寺に伝わる名宝「青山」という琵琶を賜るほどの琵琶の名手として知られていました。
ところが時は源平の合戦。木曾義仲が都に攻め入るに及んで経正は、覚性法親王を継いだ第六世門跡の守覚法親王に「青山」を返上し、西国へと落ちて延びていったのです。
経正は一ノ谷の戦いで討ち死に、そのことを知った守覚法親王に仕える僧・行慶は「青山」を仏前に供え、経正の霊を弔っていました。
その夜更け、行慶のもとに経正の霊が現れ、二人は言葉を交わし、行慶が琵琶を弾くように勧めると経正は琵琶を手に取り弾き鳴らし昔を懐かしみます。
やがて経正に修羅の苦しみが襲ってきて、自らの苦しむ姿を見られることを恥じた経正は、灯火を吹き消し行慶の前から消え失せたのでした。

死んだ後も、自分の苦しむ姿を見られたくないという少年心が何とも切ないですねえ・・・。


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最後に、仁和寺にまつわる太平洋戦争末期のエピソードを、ひとつ。

日本が敗戦濃厚となった際、当時の首相だった近衛文麿が昭和天皇を仁和寺に迎えて出家してもらうことで、難局の事態を収拾し、国体護持をはかろうとしたという逸話が残っています。
しかも仁和寺の近くには五摂関家の筆頭でもあった近衛家に伝わる20万点におよぶ古文書や古美術を保管する“陽明文庫”(昭和13年(1938年)設立)があり、また仁和寺の「霊明殿」の扁額は近衛文麿の揮毫で、後に自殺した近衛にとっては絶筆だったともいわれていて、昭和天皇の出家画策の噂もまんざら嘘ではなさそうです。





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