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大覚寺 その2

2011年08月01日 22:27

さて、大覚寺がどうして“心経写経の根本道場”と呼ばれるのかというと・・・、

伽藍の中心部にある「御影堂(心経前殿)」の裏手(北側)にはコンクリート造りの八角形の校倉造風の建物があります。

DSC01965_R.jpg 〈勅封心経殿〉

大正14(1925)年に再建された特に目を引く建物ではありませんが、これこそが大覚寺の真髄である「勅封心経殿」なのです。

法隆寺の夢殿を模したこの建物の中には嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格と六天皇直筆の般若心経が収蔵されていて、もちろん内部は非公開。扉が開けられるのも60年に一度とのこと。

空海が嵯峨天皇の信任を得て、宮中に真言密教を広めたことは周知の事実ですが(東寺が空海に下賜されたのも嵯峨天皇によってでした)、弘仁9(818)年に疫病が大流行した際、嵯峨天皇が空海の勧めに応じて般若心経の写経をすることで疫病はたちまちに治まったといいます。

またその後の歴代天皇も嵯峨天皇の写経に倣って、国の異変、天災のたびに自ら筆をとって国の平静を祈願し、さらに時を経て、嵯峨天皇や歴代天皇の直筆の般若心経は、都に悪疫の流行や大飢饉の際に開封され、宮中の人々が拝見し、国の安泰を願ったのだとか。

そして、今も「勅封心経殿」に納められている天皇直筆の「般若心経」はところどころ文字が欠損しているらしいのですが・・・それは、“宮中の人々が文字を洗って飲んで?!”、病気平癒を祈ったからだともいわれています。

しかし大覚寺側のアピール不足なのか、この建物の前に建つ「御影堂(心経前殿)」の存在感が大きすぎるのか、参拝者で足を止めて、天皇直筆の写経に思いを馳せる人はほとんどいません・・・。昔の宮中人はその文字を洗って飲むほど、すがったというのに(苦笑)。


もうひとつの大覚寺の特徴「いけばな」も嵯峨天皇の時代に遡ります。

都名所図会「大沢池 大覚寺」 - コピー
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大沢池 大覚寺〉

大覚寺の境内の東にある大沢池は、嵯峨離宮の造営にあたって中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造った庭園の名残。日本最古の人造湖です。

DSC03146_R.jpg

たびたびこの池で船遊びに興じていた嵯峨天皇が小島に咲いた菊を手折り花瓶に挿したところ、その姿が仏教の花を献じる供花と相まって、“いけばな嵯峨御流”として今日にまで続いているのだとか。

DSC03173_R.jpg
〈嵯峨天皇が野菊を手折ったとされる「菊島」〉

寺院と華道はいにしえより深い関係にはありますが、嵯峨御流は仏教寺院が主宰する華道の流派の中でも、かなり有名な流派と言えます。境内のいたるところに花も活けてあって「いけばなの寺」としてのアピールは上々。



大沢池の北東にあり、嵯峨離宮庭園の遺構として有名なのが「名古曽の滝跡」。『百人一首』で「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と藤原公任によって詠まれた滝跡です。平成6(1994)年からの発掘調査で中世の遺水が発見され、平成11(1999)年に復元が完了したとはいうものの・・・ただ石が転がっているだけです・・・。

DSC03171_R.jpg 〈名古曽の滝跡〉


池のほとりに映える真紅の宝塔ですが、古い建物ではありません。昭和42(1967)年、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されたものです。

DSC03155_R.jpg 〈心経宝塔〉


DSC02040_R_20110731134504.jpg 〈大沢池の蓮の花〉





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