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織田作之助と京都 その1

2011年07月31日 00:59

織田作之助と京都


織田作之助を語る上で外せないのが、青山光二。
そう、このブログで紹介した奇人哲学者“土井虎”こと土井虎賀寿をモデルにした小説『われらが風狂の師』(1981年、新潮社刊)の著者、その人です。


青山光二は1913年(大正2)2月生まれ。1930(昭和5)年に第三高等学校文科甲類に入学。同学年には田宮虎彦や戯曲家の森本薫(『女の一生』の作者)がおり、一年の終わりに文芸部の投書箱に「廻る」という30枚ほどの習作を投函し、それが『嶽水会雑誌』(三高の文芸部が編集していた校友誌で、かつては梶井基次郎の「矛盾の様な真実」も掲載されていました)に載ったことから、文学の道を本格的に志すようになります。その時、二年生で文芸部の編集にあたっていたのが西口克己でした。
『嶽水会雑誌』は四、五人の文芸部委員が合議して編集するのだったが、私の幼稚な作品の掲載をきめたのは西口克己であるらしかった。西口は当時は難解でハイカラな詩を書いていた。後年、『廓』にはじまる、誰にでも読める小説を書くようになるとは思いもよらなかった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉

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〈『懐かしき無頼派』著者・青山光二、1997年、おうふう刊〉


青山光二より一年遅れて1931(昭和6)年に三高文科甲類に入学してきた織田作之助でしたが、青山が二年の9月から肺尖カタルを口実に一年間休学したこともあり、初めての出会いは1933(昭和8)年10月にふたりが三年生になったドイツ語の試験会場で。
織田の方から「青山君でしょう? こっちへ来ませんか」と声をかけます。一年間の休学でドイツ語を忘れてしまっているであろう青山を気遣いカンニングの手はずを整え、自分の後ろの席に青山を座らせたのをきっかけに、33歳で織田が亡くなるまで終生無二の友人としての付き合いが始まったのです(ちなみに、その際のカンニングは失敗に終わったようです(笑))。

そして、もうひとり織田を文学的指向(当初、織田は小説ではなく戯曲に傾倒していたようです)に導いた人物が、織田と同年に三高の文科甲類に入学し、在学中から詩誌『椎の木』(主宰・百田宗治)同人として活躍していた詩人・白崎礼三でした(白崎は太平洋戦争末期、30歳にして肺結核で亡くなりましたが、後年、1972年に富士正晴と青山光二の共編で『白崎禮三詩集』が刊行されています)。

つまり、織田作之助を文学の世界に引っ張り込んだのが白崎礼三で、当初は劇作家志望だった織田を小説家志望へと転身させたのが青山光二だったのです。

年三回発行されていた校友誌『嶽水会雑誌』の合評会が寺町の鎰屋(梶井基次郎の作品で有名な鎰屋ですが、当時の三高生御用達の店でした)で行われた1934(昭和9)年1月。三年生の青山と織田が編集を任されていて、当時二年生の野間宏の投稿小説について、その席では激しいやりとりがあったようです。
その号には、野間宏が小説を書いていた。野間は文芸部員ではなく、原稿も募集に応じて投稿して来たものであった。はじめに織田が読んでダメだと言っていたのを、私がこれはいいと主張して載せたのだった。
野間は会が始まる頃になってから、のちに彼の義兄となった富士正晴といっしょに、のっそりとはいって来た。野間は長いマントを羽織った陰鬱な表情の生徒で、会のあいだじゅう、ほとんど一言も口をひらかなかった。代わりに富士が、野間の分も二人分、いやそれ以上も、威勢のいい調子で弁じ立てた。富士は詩を発表していた。
〈青山光二『青春の賭け 小説織田作之助』所収「漂白」(初出は「中央評論」昭和25年11月号)〉

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〈『青春の賭け 小説織田作之助』著者・青山光二、2010年、講談社文芸文庫〉

その席で初めて、病気療養中で合評会のためだけに故郷の敦賀から出てきた白崎が青山と対面。その夜、織田も含めた三人で新京極・四条界隈の喫茶店や飲み屋を歩き回り文学談義に花を咲かせ、円山公園の円山食堂で夜を明かし、三人は終生の友人となったのでした。
その頃、三高生がよく行った酒のみ場所は、新京極裏の正宗ホール、四条大橋西詰の八百政、たまには南座前の菊水などだったが、あまり酒を飲まない私たち三人は喫茶店をハシゴすることの方が多く、四条河原町の長崎屋あたりが街あるきの出発点だった。長崎屋の近くの路地の「ヴィクター」というほの暗い店や、河原町三条の「リプトン」へも毎日のように行った時期がある。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉
DSC04937_R.jpg 〈南座前の「菊水」〉

しかし、三人のうちで青山光二は順調に卒業し東京帝国大学文学部に入学するものの、織田は五年も通ったにもかかわらず、試験結果がかんばしくなかった上に、出席日数も少なかったため卒業できず、白崎も織田に同調してか、同じように三高中退という経歴に付き合う羽目となりました。
そして青山が東京で学生生活を送り、織田と白崎が京都に残ってまだ三高の三年生をしていた時に、織田と知り合ったのが後に彼の糟糠の妻となる宮田一枝でした。

三高近くの酒場「ハイデルベルグ」の住み込み女給だった彼女に一目惚れした織田は、その酒場に通い詰め、ふたりで織田の下宿に住む同意を彼女から得ます。しかし、彼女にはすぐに実行出来ない訳がありました。宮田一枝は「ハイデルベルグ」を経営していた映画監督・徳永フランクに借金があったのです。
宮田一枝は徳永フランクからいくらかの金を前借した上で「アルト・ハイデルベルグ」に住込んでいるようだった。同様な身分の女性と二人で、二階に寝泊りしていたのだが、それを知った作之助は、深夜、彼女を「アルト・ハイデルベルグ」の二階から脱出させることを計画した。(中略)ある夜更け、瀬川がどこかから調達して来た梯子を「アルト・ハイデルベルグ」の横丁に面した壁に立てかけ、一枝の身の廻りの物をつめこんだ柳行李を窓から紐で吊して地面へ降ろし、次に一枝自身が梯子をつたって降りるのを二人で手伝った。一階には徳永フランク夫婦が住んでいるので、こうするのがいちばんてっとり早い脱出方法だった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「一通の書簡から」より〉

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〈「ハイデルベルグ」のあった場所は「東大路通東一条」交差点の西〉

瀬川とは織田と同級の瀬川健一郎のことで、後に東大文学部から大阪毎日新聞社に入り、「小学生新聞」の編集長を勤めた人物です。1939(昭和14)年に織田と宮田一枝が結婚する際は独身にもかかわらず媒酌人をつとめました。
どうやらこの脱出劇の時には「こういう仕事には向かない」との理由で白崎は呼ばれなかったようですが、後に、織田が下鴨にあった宮田一枝の実家に求婚の申し出に行った際には友人のよしみで白崎が同行。しかし・・・あまり役には立たなかったようです。

ともあれ、「ハイデルベルグ」を脱出した宮田一枝と織田は、銀閣寺の終点近い線路に沿った通りに部屋を見つけて暮らし始めます。かといって貧しい実家に金を入れなければならない一枝は遊んでいるわけにもいかず、彼らの部屋とちょうど向かい合った、広い電車通りを隔てた場所にある酒場「リッチモンド」に勤めるようになるのです。しかし女給という仕事柄、彼女に言い寄る三高生や京大生も多く、織田の嫉妬や焦燥も募って一枝に暴力を振るったりすることも、たびたびあったようで。同棲当初、織田が一枝に暴力を振るっていたという話は、1944(昭和19)年に30歳で一枝を亡くした時の織田の悲しみぶりからは想像できない逸話です。

DSC01656_R.jpg 〈銀閣寺道〉

さてその後、織田作之助は・・・、青山光二が呼びかけ人となり、東大生の柴野方彦や深谷宏と、三高に残っていた白崎礼三らと同人誌『海風』を創刊。三高を中退した織田は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)に勤めながらも『海風』で作品を発表し続け、1939年9月の『海風』6号に「俗臭」を発表。これが第10回芥川賞候補となり注目を浴びます。そして1940年9月の『海風』10号に発表した「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品に推されて、作家としてやっていく自信をつけ新聞社を退社したのでした。





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