--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

俳諧師

2011年07月23日 00:07

俳諧師 高浜虚子 1908年

IMG_0001 (4) 〈『俳諧師・続俳諧師』 著者・高浜虚子 岩波文庫〉


高浜虚子(1874年(明治7)年)―1959年(昭和34)年)。本名は高濱清。

正岡子規(1867年―1902年)に師事した俳人で、子規の意志を受け継ぎ俳句雑誌『ホトトギス(ほとゝぎす)』(1897年創刊)の第二代主宰者として、俳壇に“君臨”した人物です。

愛媛県松山市で生まれた虚子は、松山中学を卒業後の1893(明治26)年に京都の第三高等中学校(第三高等学校の予科)に入学します。
一歳年上で中学時代の同級でもあり、同じく正岡子規に兄事していた河東碧梧桐(1873年―1937年)も虚子と時を同じくして、三高に入学。後には俳句のあり方や子規の後継をめぐって断絶する二人でしたが、この頃は仲良く同じ下宿に住んでいました。

ただし、虚子の京都滞在は短く、わずか一年間だけ。というのも1894年には学制が変わり、虚子と碧梧桐が属していた三高の予科が解散となり、他の多くの学生たちとともに「分袂式」を開いて京都を去り、それぞれが別の旧制高等中学校へと転籍していったのです。
虚子と碧梧桐はともに、仙台の第二高等中学校へと移り、そこもわずか一ヶ月で退学。文学を志していた二人はそろって子規を頼りに上京するのでした。

鴨川堤を離れて吉田町に曲りかけた時、三藏は漸く我に歸つたような顔をして「山本君、叡山はどの山かい」と聞いた。「叡山かい、叡山はそれさ」と山本は顋(あご)で東北隅に聳えてゐる山を指した。「あれが叡山か」と三藏は感心する。國に居て夢想してゐた京都と、現在踏んで居る京都とは今迄全く別のものであつたのが此時漸く一つのものにならうとする。

高浜虚子が著した小説『俳諧師』は小説家を目指していた著者が松山から京都、さらには東京に出て俳人として独り立ちするまでの経緯をモデルに描かれた作品です。
虚子にとって初めての長編小説で、自ら文芸部長をつとめていた「国民新聞」(初出は1908年)に掲載し、主人公の塀和三藏(はが・さんぞう)は著者である虚子自身がモデルとされています。

或夕暮三藏は京極から四條の方へ散歩に行つた。三藏は時々買物に寺町へ行く事はあるが京極へは滅多に行く事はなかつた。京極の錦魚亭でたゞ一度善哉を食つたのももう大分前の事である。三藏は今宵珍らしく獨りでぼつぼつと京極を歩く。大變な人手で「お這入りやーす」と言う寄席の呼聲も人の呼吸でむれたやうな中から響く。

1905年に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』は虚子の主宰する「ホトトギス」に掲載され、大反響を呼びました。そんな漱石の影響もあり、正岡子規の没した1902年頃から虚子は俳句の創作を一時休止し、小説の創作に没頭、次々と作品を発表しました。・・・が、残念ながらこの『俳諧師』を含め虚子の小説が評判となることはなかったようです。


現在も「ホトトギス」(ホトトギス社)は存在しますが・・・高浜虚子の子、孫、曾孫と社主や編集長は世襲で続いているようです。このあたりの家元制度に擬すことのできる感覚が、俳句をもってして“第二芸術”と揶揄される一因なのでしょう。
もはや俳句が家業となってしまっているのですから・・・(苦笑)。





コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/tb.php/264-ff79b345
    この記事へのトラックバック


    Twitterボタン

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。