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夭折の天才画家 村山槐多その3

2011年05月12日 00:22

村山槐多の美しいものへの執着は、性別や年齢を超え、ストーカーまがいの行いを起こすこともしばしば・・・。度重なる片思いと失恋は彼の奇行を際立たせます。

彼の第一の恋愛対象として現れたのは、京都府立第一中学時代、一級下の美少年・稲生澯(いのう・きよし)なる人物。

村山槐多_0004 〈「稲生像」(1913年頃)〉

ほとんど会話もしたことのない稲生に対し、彼を「PRINCE(王子)」と呼び、その思いを密かに日記や詩に謳いあげるのです。そしてある日、彼に宛てた激烈なラブレターを書き上げますが・・・思いは届かなかったようです。

「にぎやかな夕ぐれ(K.Iに)」(1914年)

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
何がにぎやか、何がにぎやか、
薄青い濃い夕ぐれ

美しい空が東山に
紫の珠が雨みたいに東山に
星が血のりめいて酒びたりの春の空に
紫に薄くれなゐに

「ほんまににぎやかやおへんか」
たどりゆくは女の群
宝玉でそろへた様な多情な群
美しいお白粉にきらきらと

燈が燈が燈が加茂川の岸べに
金色に、アークランプも桜色に
「ほんまににぎやかやおへんか
きれいな夕ぐれやおへんかいな」

わたしはたどる紫の貴い薄紫の
神楽岡の裾を浮き浮きとした足どりに
たらりたらりと酒が滴たる
あざみ形の神経から

「にぎやかやおへんかいな」
わたしは答へるうれしさに
「そうどすえなあ」
美しい女の群に会ふや数々

「にぎやかな夕ぐれどすえな
ほんまににぎやかな
あの美しいわたしの思ふ子は
此頃どないに綺麗やろえな」

近衛坂を下れば池の面に
空がうつる薄紫の星の台が
ほのかにもるゝ銀笛の響は
わが思ふ子の美しい家の窓から

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
この時泣いて片恋のわれはつぶやく
「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」。

『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』(酒井忠康編、講談社文芸文庫)より

題名にある“K.Iに”とは、一中時代に激しい片思いをした美少年・稲生澯のこと。そして、詩に謳われている神楽岡は稲生の住まいがあった場所でした。槐多は神楽岡を徘徊し、夜中、宗忠神社の近くから彼の家を見下ろし眺めていたことも、しばしば。そしてグロテスクな仮面を被り、オカリナを吹きながら恋する相手の住む夜の神楽岡を彷徨ったこともあったのだとか・・・。


稲生の次は、上京後、同居していた水木の後輩で、当時から画家志望であった柳瀬正夢(やなせ・まさむ)。さらには、部屋を借りていた小杉放庵の幼い二人の甥までもが、執着の対象だったのです。

村山槐多「二人の少年(二少年図)」1914年
〈小杉放庵の甥がモデルとされる「二人の少年(二少年図)」(1914年) 一時この絵は、江戸川乱歩が所蔵していました〉


そして、1916(大正5)年には槐多にとって(一方的に)運命の人といえる女性との失恋が待ち構えていました。その女性は“お玉さん”というモデル屋につとめていたモデル女性でした。

お玉さんを慕うあまり、彼女をモデルとして雇いたいとの懇願の手紙を執拗に書いたり、彼女の住居近くに越したり・・・。
彼女への激しい思慕は多くの詩に託され、「失恋の記録」(1917年)と題された長い詩には、お玉さんとの出会いから、拒絶され傷心の末、旅立つまでの経緯が綴られています。

そんな失恋の翌年には、根津に住む老妓“おとくさん”との出会いと別れもありました。
おとくさんは40歳過ぎで子持ちの、槐多がかつて住んでいた下宿先の「おばさん」でした。小杉邸の離れを出た後に移り住んだのが、おとくさんのいる下宿だったのです。
下宿していた頃はお玉さんに熱を上げていた槐多でしたが、その失恋を経て、おとくさんと再会し、美しく妖艶だった彼女に恋をしてしまいます。槐多は、工場の絵付けアルバイトで得た給料をおとくさんに貢ぐなど、絵に費やす時間を犠牲にしてまで彼女の虜となり、根津の裏通りにある彼女の家で同居を望むようになるのです。しかし、つれない彼女の態度に別れを決意し、傷心のうちに九十九里へと旅に出るのでした。


そして二つの恋に破れた後の1918(大正7)年秋、槐多は大喀血をします。当時、死病とされていた結核性肺炎に冒されていたのです。

1919(大正8)年2月、流行性感冒を患い寝込んでいた槐多は、18日夜、発作的に雪交じりの激しい雨の中へと飛び出していました。心配した友人たちによって捜し出された彼でしたが、容体は危険な状況となり、昏睡状態に陥ります。
意識の乏しい上の空の中で、彼は恋い慕った稲生の名や、お玉さんの名を呼び、最後に「コスモス」「飛行機のものうき光」という謎の言葉を残して死んでしまいます。2月20日のことでした。最後の謎の言葉は次に描こうとした絵のモチーフだったともいわれています。

村山槐多_0008 〈「白衣の自画像」(1916年)〉

彼の死後、友人である山崎省三によって詩や小説、日記が編集され、『槐多の歌へる』(1920年)として出版。世に村山槐多が知られることとなります。出版元・アルスの社長である北原鐵雄とその兄・北原白秋の“妹”は、村山槐多の従兄・山本鼎の“妻”でもあるという関係でした。


現在、村山槐多の詩文は『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』(酒井忠康編、講談社文芸文庫)で読むことができ、作品は『新潮日本美術文庫42 村山槐多』(解説・窪島誠一郎)で手軽に見ることができます。ちなみに、村山槐多の多くの作品を所蔵する「信濃デッサン館」館主の窪島誠一郎氏は作家・水上勉の息子としても有名です。

村山槐多_0002 村山槐多_0001





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