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夭折の天才画家 村山槐多 その2

2011年05月12日 00:19

学校教師の父親の元、横浜で生まれた村山槐多は、その後、父親の転勤に伴い、岡崎、高知と移り、京都にやってきたのは3歳の時。中学を卒業する17歳までの14年間を京都で過ごしました。母親は森鷗外の女中をしていて、両親の結婚は鷗外の紹介でもあったそうです。

小学校6年生の頃から内外の詩や小説を読みふけり、名門旧制京都一中に入学。その時にはすでに、ボードレールやランボー、プラトンを英訳で読破するほどの秀才だったとか。

13歳の時、従兄で画家の山本鼎(1882年―1946年)が渡仏を前に京都の村山家に滞在し、その際、彼から油絵道具を与えられたのが絵との本格的な出会いでした。
学生時代には友人たちと回覧雑誌を作り、そこに槐多は挿絵と詩を掲載し、すでに非凡な才能は溢れ出さんばかりで・・・。

村山槐多_0011
〈回覧雑誌『強盗』のポスター(1911年) 京都府立一中時代、授業もそこそこに友人たちと回覧雑誌作りに興じていました。雑誌名は『アルカロイド』『青色廃園』『孔雀石』『新生』そして『強盗』。大正時代の探偵小説の挿絵に出てきそうな画調です〉


中学を卒業した彼は、画家への志を抱き、1914(大正3)年に上京。山本鼎のはからいで、田端にある小杉放庵(別名・未醒、1881年―1964年)邸の離れで暮らし始めます。山本鼎と小杉放庵はともにフランスへ留学していた知己でした。

上京した年には、高村光太郎の工房に出入りするようになり、また横山大観や小杉放庵らが再興した日本美術院に研究生として入会。新たに創設された第一回二科展に「庭園の少女」が入賞するなど、画家としての出発は順調に思えました。

村山槐多_0003
〈「庭園の少女」(1914年、福島県立美術館蔵)第一回二科展入選。モデルは寄寓していた小杉放庵(未醒)の末娘・百合子。槐多の名を知らしめるデビュー作とも言える作品です。槐多を象徴するガランスとは一転、ウルトラマリンを用いた落ち着いた階調の作品〉


小杉邸の離れに住んだ2年間、部屋の壁は槐多の卑猥な落書きで埋め尽くされ、デカダンの限りを尽くした生活だったと、同居人の水木伸一は語っています。収入はなく、生活は貧困を極め、友人を訪問する際には食事時を狙い、借りた本も古本屋に売り飛ばすなど・・・。

村山槐多_0010 〈「のらくら者」(1916年)〉


高村光太郎は村山槐多の死後、それも四半世紀後に、その人となりを次のような詩に謳っています。
「村山槐多」(1935年)

槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


村山槐多_0012 〈「猫を抱ける裸婦」(1916年)〉





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