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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その5

2011年04月29日 02:19

大谷光瑞と並んで、伊東忠太のパトロンとして有名なのが、大倉喜八郎でした。
大倉喜八郎(1837(天保8)年―1928(昭和3)年)は、戊辰戦争から日清、日露戦争と政府に取り入り戦争特需で大儲けし、大倉財閥を一代で築いた傑物です。大倉財閥の系譜に連なる現在の企業としては帝国ホテル、大成建設、ホテルオークラなどがあります。

大倉喜八郎 〈大倉喜八郎〉

伊東忠太が携わった大倉関連の建築では、1927年に竣工した「大倉集古館」「祇園閣」「大倉喜八郎京都別邸」等があり、それ以前にも私邸の門や葬儀場の設計を依頼されたようですが、実現には至りませんでした。

伊東と大倉喜八郎との関係は、そもそも大倉の息子である喜三郎が帝国大学工科大学で伊東の一年後輩だったという縁から。「一九一二年の大倉向島別邸の建設の際に、片山東熊や妻木頼黄とともに相談を受けたことに始まった」(鈴木博之編『伊東忠太を知っていますか』2003年、王国社刊 より)ようです。



祇園閣(1928(昭和3)年竣工)

DSC01188_R.jpg


現在、京都東山にある大雲院となっている地は、もともと大倉喜八郎の別邸「真葛荘」で、敷地内に建築された3階建ての建物がこの祇園閣です。

祇園閣1 DSC00777_R.jpg
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第一巻(1958(昭和33)年刊行)より〉


ある日、伊東は大倉喜八郎に電話で呼び出されます。
そして大倉が言うには・・・、風雨に煽られた自分の傘が漏斗状に反転し、その形がおもしろかったので、その形を模して建築物を造ってほしい、とのことでした。
あっけにとられた伊東は、渋々ながらも数件の設計案を仕上げ、数日後に大倉の元に持参するも「格好が悪い」とあえなく却下。後日、伊東は再度、大倉に呼び出され今度は・・・祇園の鉾の形をそのまま建築化した建造物を造り、街を一望できる高閣として京都の名所にしたい、と要望してきたのです。そして完成したのが、祇園閣なのでした。

DSC00803_R.jpg

現在、祇園閣や旧大倉家京都別邸(書院)を所有する大雲院は、浄土宗系の単立寺院。織田信長と信忠親子の菩提を弔うため1587(天正15)年に烏丸二条で創建されました。その後、秀吉の都市計画整備で寺町通りに移転し、さらに近年になってデパート高島屋の増床に伴い、1972(昭和47)年に現在地へと移転してきたのです。

新撰京都名所圖會 大雲院1新撰京都名所圖會 大雲院2
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第四巻(1962(昭和37)年刊行)より 四条河原町界隈にあった頃の大雲院〉


銅板葺きの屋根は、金閣、銀閣に次ぐ銅閣とするべく大倉が指示した、ともいわれています。
また、鉾の頂と、昇降口施用面銅扉の左右に施された鶴は、大倉喜八郎の幼名・鶴吉と号・鶴彦にちなんで“鶴”が形作られているのです。

DSC00779.jpg

特異な造型の祇園閣ですが、今や東山の風景にはなくてはならない建物となっています。





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