--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伊東忠太の手がけた京都の建築物 その4

2011年04月29日 02:17

伊東忠太は1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて、アジア・欧米を遊学します。
その時に、中国の貴州から雲南に入るあたりで大谷光瑞(1876(明治9)年―1948(昭和23)年)率いる大谷探検隊の一員である学生と偶然に遭遇していました。そんな縁から、伊東は帰国後、直接の面識はなかったものの法主となっていた大谷光瑞を西本願寺に訪ねるのです。その際、両者はたいそう意気投合し、当時計画されていた「大連別院」(中国)や、「鎮西別院」(門司)の設計を伊東は直接依頼されます。

大谷光瑞
〈西本願寺第二十二世法主・大谷光瑞〉

在來の日本式佛寺建築といふものは、その構へが大袈裟の割に實際に使つて不便極まる。(中略)佛寺だからといつても何も舊來の古くさい佛寺建築をそのまま墨守する必要はない。機會があつたら印度式の寺を造つて、在來の佛寺建築にみられたいろいろの缼點をなくしたいものだ。佛教は印度から發したものでもあるから、その建築を印度式にすることは、その源に還へることともなり、意味あることだと思ふ。
『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀 より

上記は伊東忠太の伝記(『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀、1945年、乾元社)からの引用による、大谷光瑞が伊東に語ったとされる言葉です。

そもそも大谷光瑞という人は、ロンドンに留学するなど、伝統教団の法主という立場にありながら先見性に富み、海外開教にもいち早く目を向けた人物でした。大谷探検隊などという莫大な費用と、途方もない行動力を有するシルクロード学術探検隊を組織し、自ら率いたことからも、その革新的な人間性は十分理解できるでしょう。

そして、建築の新分野を開拓しようと、その趣向をアジアに求めていた伊東忠太。二人の気質は自ずと合致していました。

しかし、これら別院の設計は檀家の反対に遭い、あえなく頓挫。伊東案ではない旧態依然の寺院建築案が採用されました。伊東の設計も、大谷光瑞の思いも当時の人々にとってはあまりに斬新すぎて理解できなかったのです。


それでも、1909年には伊東の設計による大谷光瑞の別荘・二楽荘が神戸六甲山で建造され(1932年に焼失)、1912年には真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)の本社屋が本山の門前に完成します。

二楽荘本館(1909(明治42)年竣工)

二楽荘

二楽荘の由来は「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」。
インド様式の本館にはドームがそびえ、中はイギリス、インド、アラビア、エジプト各国をモチーフにした部屋や回廊式の書庫があったといわれています。
この本館のほかにも、敷地内には学校、測候所、宿泊施設があり、三本のケーブルカーが各施設をつないでいました。
大谷光瑞の失脚後(大谷探検隊等の多額の出費で教団の財政が傾き、法主の座を降ろされたのです)は、大阪の実業家で政治家の久原房之助に払い下げられましたが、1932(昭和7)年に不審火により焼失し、現存していません。



真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)(1912(大正元)年竣工)

DSC00815_R.jpg


建築当初は「付属室」「倉庫」「物置・人力車置場・便所」「屋根付伝い廊下」が付属の建物としてあったものの、現在はレンガ造二階建の「本館」のみが竣工当時のまま現存し、京都市指定有形文化財に指定されています。

DSC00356_R.jpg

赤レンガ造り、一部ドーム付きの二階建て。インド・サラセン様式(インドの伝統的な様式と西洋建築を折衷させた様式)のエキゾチックな建物です。
周囲を取り巻く敷地の境界には御影石一本造りの石柱が並べられ、その柱頭にはライオンや羽を持つ象などの動物の彫像が施されています。この石柱も文化財に指定されています。

DSC00351_R.jpg

内部はケヤキ造りの黒光りした階段や、高い天井から吊り下げられたシャンデリア装飾が施されています。

DSC00822_R.jpg


伊東忠太の手がけた西本願寺の建築物として最も有名なのが、古代インド様式の伽藍を持つ築地本願寺(1934年)です。竣工当時は、東京の人々の目に奇異に映り、あまり評判のよろしくなかった建物ですが、今や伊東の代表作となり、浄土真宗本願寺派が擁する東の一大拠点として、また街の顔としても存在感を醸し出しています。

築地本願寺 〈築地本願寺〉

ただし、伊東にとってこの“作品”すらもそれほど満足のいく出来ではなかったようで・・・
残念だが自分が期待した傑作とはならなかつた。それには理由があることで、尊由師は、自分の立場をよく理解して一切を任せるといふのだつたが、寺院當事者の建築といふものに對する無理解から、干渉がましい注文などがいろいろ出されたので、随分骨を折つて見たが、結局功を一簣に缼くといふやうな成績となつた。他から干渉されたものに會心の作などは決してできないものだが、實は私の推敲や努力もまだ足りなかつたためである。
『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀 より

尊由師とは大谷光瑞の弟である大谷尊由のこと。第1次近衛内閣では拓務大臣を務めた貴族院議員でもありました。尊由が1923(大正12)年の関東大震災で潰れた築地本願寺の再興を任されていて、伊東との窓口となっていました。この人も兄・光瑞と同じく、先見性のある人物で、伊東の印度式建築に理解を示した人だったのですが・・・教団を取り巻く人々の多くは、やはり伊東の建築様式に抵抗を感じていたようです。


建築家は施主がいて、初めて成り立つ職業です。理想を実現させるには、建築家の仕事はあまりに大きく、画家や彫刻家のように、個人のやりたいように表現できない難しい職業、もといゲージツ家なのです・・・。





コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/tb.php/231-bb6e4ea4
    この記事へのトラックバック


    Twitterボタン

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。