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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その2

2011年04月26日 01:36

平安神宮(1895(明治28)年竣工)

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そう、この平安神宮も伊東忠太の設計によるものです。しかも、20代半ばにして初の仕事が、こんな大仕事だなんて・・・。

京都では1895年に「第四回内国勧業博覧会」と「平安遷都千百年紀念祭」が開催されることとなり、その目玉事業として大内裏を復元する計画が持ち上がります。

そして、伊東が大学院で日本建築を研究をしていた1893(明治26)年、平安遷都記念祭協賛会より記念殿建築技師に任命されるのです。大学院の指導教官であった木子清敬(きこ・きよよし)の推薦による大抜擢でした。

とはいっても、大内裏の復元に自らの建築の理想をつぎ込む余地はありません。しかも予算の関係で当初予定されていた8分の5の規模に復元が縮小され、伊東にとっては満足のいく仕事ではなかったようで・・・。また、そもそも平安神宮は「平安遷都記念殿」と称する単なる模造大極殿として建築されようとしていたものが、のちに工事の途中で桓武天皇を祀る平安神宮へと変更になったという経緯もありました。

DSC00444 (2)_R 〈應天門(神門)〉

1895(明治28)年に平安神宮は完成。木子清敬、伊東忠太、佐々木岩次郎の三者による共同設計となっていますが、木子は顧問格の名誉職として名を連ねているに過ぎず、実質は伊東が理論的な設計を担い、佐々木が技術的な実地を担ったとされています。
伊東と佐々木はウマが合ったのでしょうか。この後も、豊国廟(1898年)、宮崎神宮旧徴古館(1907年)、浅野総一郎邸(1909年)、増上寺大殿(1925年)等で一緒に仕事をすることになります。

DSC01196_R.jpg 〈大極殿〉

ともかく、この平安神宮造築に伊東忠太は若くして考案・設計・監督として携わり、官僚や宮大工といった人脈を得て、エリート建築家としての道を歩むこととなるのです。

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〈蒼龍楼〉

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〈白虎楼〉

祭神は平安京に都を移した第50代桓武天皇の他に、京都に都があった最後天皇でもある第121代孝明天皇が1940(昭和15)年に加えられています。

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平安神宮は1976年(昭和51)年1月6日、放火により本殿・内拝殿など9棟が炎上し焼失。現在の社殿は1979(昭和54)年に全国からの募金により再建されたものです。
この放火事件については梨木神社爆破事件(1977年1月1日)や東本願寺爆破事件(1977年11月2日)など一連の“闇の土蜘蛛”事件として、後に知られることになるのですが・・・、この事件については、また機会のあるときにでも・・・。





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