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精神病治療発祥の地 岩倉 その2

2011年04月16日 00:56

まず、大雲寺のおおまかな変遷から・・・。


寺の縁起によると、第64代円融天皇の時、都の北の空に紫雲たなびく場所があり、不思議に思い勅使を遣わしてみると そこが霊地であることがわかります(よくある伝承です(笑))。
そして勅願によって天禄2年(971)年、その岩倉の地に大雲寺が創建されました。

僧・真覚を開山とする大雲寺ですが、実際、創建に尽力したのは真覚の舅でもあった日野中納言・藤原文範です。藤原文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたる人物でした。
余談ですが、『源氏物語』の「若紫」で“わらは病”を患った光源氏が祈祷治癒のため聖僧のいる「なにがし寺」に行き、そこで紫の君と出会いますが・・・その「なにがし寺」のモデルは、紫式部と曽祖父・藤原文範の関係から大雲寺だったとも言われています(もうひとつの有力な説は鞍馬寺です)。

叡山西麓最大の天台宗寺院として栄え、開山である真覚が天台宗寺門派の僧侶であったことから、寺門派(園城寺)の一大拠点へと発展。
園城寺長吏や法性寺座主を務めた僧・余慶(智弁)が、天元4(981)年に一門の僧を引き連れて大雲寺へと移ってきたのも、同寺が寺門派寺院だったことに由来します。天台座主に就任したにもかかわらず山門派(延暦寺)の反対にあい、わずか三ヶ月で辞任させられた余慶。この確執が元で、山門派と寺門派の対立は決定的となるのです。

大雲寺は寺門派(園城寺)の別院として、また永観3(985)年には冷泉天皇の中宮・昌子内親王が寺内に観音院を建立するなど皇族の庇護もあり、寺はいっそう拡大し、岩倉観音院とも称されました。

ところが、同じ天台宗にあって山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の対立が激化。大雲寺はたびたび山門派の僧兵によって襲撃され、焼失の憂き目に遭ってしまいます。
保延2(1136)年には、当時残っていた伽藍も全焼してしまいました。

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〈かつて寺門派寺院だった「実相院」の門から眺める比叡山〉

それでも、大雲寺は室町期に最盛期を迎えたといわれ、その頃には四十九におよぶ堂塔と、十万石の荘園を有し、さらに千人もの僧侶を擁する洛北屈指の名刹となっていたようです。

その後、元亀2(1571)年に起こった織田信長の比叡山焼き討ちで大雲寺も被害を被り堂宇は灰燼に帰し、ようやく江戸時代の寛永年間(1624年―1645年)に本堂等が再建され、『都名所図会』に描かれているような伽藍となるのです。

時は流れ、明治初期の廃仏毀釈運動は大雲寺にもおよび、寺域は縮小され、大きく衰退します。
さらに近年になっても、同寺の辿る不運はつきません。昭和60(1985)年には原因不明の失火により本堂等が焼失。
大雲寺は現在、かつての地より少し東にある「不二坊旧地」に移転し、往時の面影は全く見あたりません。

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〈現在の「大雲寺」は旧境内地より「石座神社」を挟んだ東に移転しています〉

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〈昔日の面影がない現在の「大雲寺」境内〉


かつて隆盛を誇っていた大雲寺のあった場所には、現在、精神科のある「北山病院」とその母体法人が運営する「老人性認知症疾病療養病棟 いずみ」「介護老人保健施設 紫雲苑」が建っています。

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〈「実相院」門前の北から続く「実相院宮墓」と「岩倉陵」への参道〉

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〈陵墓への参道を少し歩くと「北山病院」を運営する医療法人「三幸会」と老人保健施設「紫雲苑」の看板が立ち、ここがかつて「大雲寺」があった場所です〉





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