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ある心の風景 その1

2010年09月23日 00:53

ある心の風景 著者・梶井基次郎 (初出 同人雑誌『青空』8月号 1926年)

ちくま日本文学全集 表紙_20100923011527 〈ちくま日本文学全集〉


京都で文学といえば、そう、梶井基次郎です。

とはいえ「檸檬」っていうのもなんだか芸がないと思い、他の京都を舞台にしたものをさがしてみると、
なんと、「ある心の風景」しかなかったのです。
何度も読んだはずの自分の記憶力の無さに、ほとほとあきれ返ってしまいます。

梶井基次郎の作品はどれも短編で、しかも31歳の若さで亡くなるまでに20編足らずしか発表していません。
それらの作品だけではもの足りず、京都時代を描きながらも完全な作品にならなかった習作「矛盾の樣な眞實」や
草稿「貧しい生活より」「犬を賣る男」「瀬山の話」(この「瀬山の話」の中の一部が、のちの「檸檬」となります)「雪の日」等
を読んでいるうちに、自分の中で、京都と梶井基次郎との印象が強くなりすぎたようです。


梶井基次郎全集 表紙20100923011340 〈筑摩書房 梶井基次郎全集〉


さて、「ある心の風景」も他の作品同様、短い小説です。しかし小品にもかかわらず6つの章立てになっています。

1.主人公・喬は、深夜眠れず、部屋の窓から寝静まった通りを凝視(みい)っている。そこは魚の腹綿や鼠の死骸が幾日も放置され、荒壁が崩れ、人々が古手拭いのように無気力に生活をしているように思われる町だった。
深夜ひとり眺めていると「深い霧のなかを影法師のように過ぎてゆく想念がだんだん分明になって来る」。そして「ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる」。
どこまでが自分の想念で、どこからが深夜の町なのかわからなくなる。ただ、ただ、彼は憂鬱だった。

2.喬が眠れないのは、買った女から悪い病気を得ていたからだった。
以前、彼は奇妙な夢を見た。  足が地腫れをし、その上に、噛んだ歯がたのようなものが二並びついている。腫れは大きくなり、盛りあがった気味悪い肉が内部から覗いたり、古い本が紙魚に食い貫かれたあとのようになっている。
喬はサボテンのようになった腫物を、母のせいにする。母は「そいじゃ、癒してあげよう」と、いつのまにか彼の腹に移っていた二列の腫物を、一方の腫物を一方の腫物のなかへ、ちょうど釦を嵌めるように、嵌め込んでいく。まるで釦の多いフロックコートを着たようになった。
現実生活では、女の児の相手になっていて、ふとその児が意地の悪いことをしたりすると、邪慳な娼婦が心に浮び、彼は自己嫌悪に堕ちるのだった。

3.病気をもらった夜の廓でのこと。喬は女を待つ間、勝手知ったるその家の火の見へと上がった。
レストランの高い建物、八坂神社の赤い門、電燈の反射をうけて仄かに姿を見せている森が甍越しに見える。夜の靄は遠くをぼかし、天の川が東山から流れている。
喬は自分が解放されるのを感じ、「いつもここへは登ることに極めよう」と思う。
博多から来た女は、先月の揚げ代は郭で四番目だと嬉しそうに語り、喬は女のおしゃべりに任せたままでいる。
彼はそのまま部屋に泊まる。朝、花売りの声が聞こえ、眼を覚ました。新鮮な声、と思った。榊の葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。

東大路四条_20100923014409
〈八坂神社より四条通を眺める。廓での描写は、自身の祇園乙部での体験だったとも言われている〉

4.喬は丸太町の橋の袂から加茂磧へ下りていった。護岸工事に使う小石が積んであって、秋日の下で強い匂いを立てていた。
彼は日陰に腰を下ろす。川向こうの道を徒歩や車が通り、空き地では家を建てるのか人びとが働いていた。川のこちら岸には高い欅の樹が葉を茂らせ、風に戦ぐ高い梢に心が惹かれる。
彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流の中で小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓んでいるのが感じられた。
「『ああこの気持ち』と喬は思った。『視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ』」。
毎夜、窓辺で感じる心の不思議が、この高い欅の梢にも感じられた。しかし彼は「街では自分は苦しい」とまた呟く。

荒神橋より_20100923012248
〈「川水は荒神橋の下手で簾のようになって落ちている。夏草の茂った中州の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒が飛んでいた」(本文より)〉

5.夜、喬は町を歩いている。人通りの絶えた四条通は所どころに嘔吐がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。
新京極に折れると、風呂へ出かける女、ローラースケートを持ち出す小店員、うどんの出前を運ぶ男、棒押しをしている若者など、盛り場の夜更けを見せている。
しかし新京極を抜けると、本当の夜更けがそこにはあり、自分の下駄の音が変に耳につく。そして「あたりの静寂は、なにか自分が変なたくらみを持って町を歩いているような感じを起こさせる」。
喬は腰に朝鮮の小さい鈴を提げて歩いた。人びとの中では聞こえず、夜更けの道で鳴り出す鈴は、彼の心の象徴だった。
彼の心を顫わせて鳴る鈴は病気に汚れた彼の血を洗い清めてくれるようだった。

6.窓からの風景はいつの夜も渝(かわ)らない。しかしある夜、喬は闇の中に一点の蒼白い光を見いだす。次の夜も次の夜も喬は光を見る。寝床の上に横になるときも、一点の燐光を感じた。
「私の病んでいる生き物。私は暗闇のなかにやがて消えてしまう。しかしお前は睡らないでひとりおきているように思える。そとの虫のように……青い燐光を燃しながら……」。


この「ある心の風景」には、「檸檬」の最後で見られた爽快で圧倒的な文学的カタルシスはありません。

梶井基次郎の文学の魅力とは“闇と光の対比”や“陰鬱さとそこに垣間見せる一瞬の諧謔的展開”にあるのであって、それが「檸檬」では見事に成功していました。
街を歩きながら“不吉な塊”という闇を充溢させたあと、“丸善の店内で画本を積み重ね、爆弾に擬した檸檬をおいて出ていく”という突飛もない空想(諧謔)は、闇を一瞬のうちに、光に反転させるイリュージョンとして抜群の演出でした。

ところが「ある心の風景」では、ところどころ(夜の窓辺、郭の火の見、花売りの声、加茂磧の高い欅の樹、夜に響く鈴)で、主人公は胸がすくような心持ちにはなるのですが、その気持ちも長続きはしません。
「ああこの気持」と少し精神的に解放された気分になるも、その軽やかな気分を傍で見ている別の自分が顔を出し、暗澹たる現実に引き戻されてしまうのです。

精神医学的には、この主人公の心理状況はリアルに描かれているのかもしれませんが、「檸檬」の快活さを味わってしまった読者にとっては、うまく消化しきれず、読み込めば読み込むほど、評価の難しい作品です・・・。
あんた考えすぎだよ、で済ませてしまえれば簡単なんでしょうけど、それでは名作なんていうものは生まれないですものね。





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