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瑞泉寺 畜生塚 その3

2011年04月01日 00:43

さて、陰惨な処刑から16年後、誰からも顧みられることのなくなった「畜生塚」でしたが、大仏殿再建の資材運搬のため、高瀬川の開削事業を担うこととなる豪商・角倉了以が、その開削中に墓石を発掘します。角倉了以は度重なる鴨川の洪水によって荒れていた塚を哀れみ、瑞泉寺の開山上人となる桂叔和尚と相談。墓石である石櫃の「悪逆」の二字を削り、その上に無縁塔を建てて、さらに大仏殿建立の余材をつかい堂宇を建設し、秀次一族の菩提を弔ったのが、瑞泉寺の起こりなのです。


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〈境内の西南角には、秀次の首が納められていた石櫃の安置された墓塔が建ち、墓前の左右には、秀次の子女五名、妻妾侍女三十四名、殉死者十名の計四十九名の五輪石塔がならんでいます。墓塔のまわりの五輪石塔は1941(昭和16)年に建てられたものです〉〉

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〈墓塔中央に安置された砂岩の古石が、秀次の首を納めて塚の頂上に据えた中空の石櫃です〉


また、寺の縁起に触れ、当代の二十一世となる住職が「角倉家」と「「豊臣秀次」との関係について、興味深い話を記しています。
角倉了以の実弟・吉田宗恂(後陽成天皇の脈をとるほどに当時としては著名な医師)なる人物が、かつて秀次の家臣であったというのです。秀次事件の連座を免れた彼は1610(慶長15)年に亡くなります。そう、瑞泉寺の創建時は角倉了以の弟・吉田宗恂の一周忌にあたるのです。
歴史の資料には何も記録がありませんが、怨念の「塚」が秀次公一族の新たな「墓所と寺」に生まれかわるためには、理不尽な「秀次事件」の犠牲になった人々に対する「角倉家」の熱い思いが、その財力にも増して大きな力となったのではないか―。
案内書「瑞泉寺の縁起について」より抜粋


瑞泉寺には、処刑された人たちの辞世の和歌が残されています。そして、その句が書かれた掛物の表装は、秀次の妾が着ていた打ち掛けでつくられていました。
甲斐庄楠音は瑞泉寺の法会でこの打ち掛けを見て、畜生塚に釘付けにされ、処刑される寸前の女人群像を描く八曲の屏風絵を構想。その下絵を描き始めたのが20歳の頃のことでした。

そして二十一名の女性たちの裸体が描かれた下絵だけが、未完成のまま現存しているのです。・・・いえ、むしろ未完成だからこそ、その絵は生々しく、嘆き悲しむ女性たちの姿に、鬼気迫る迫力があるのです。

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〈甲斐庄楠音「畜生塚」の一部〉


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〈今ではテナントビルがひしめく繁華街のなかで埋もれている名刹ですが・・・手入れの行き届いた、いいお寺です〉





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