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瑞泉寺 畜生塚 その1

2011年04月01日 00:40

瑞泉寺 畜生塚


三条木屋町にかかる三条小橋。たもとには、かの安藤忠雄が設計したTIME'S(テナントファッションビル)の建つ、あの小さな橋のことです。

DSC04987_R_20110413112114.jpg 〈高瀬川にかかる三条小橋〉

そこは、昼は三条通を多くの人が行き交い、夜は酔った老若男女が木屋町通りを闊歩する何とも賑やかな場所でもあります。そんな三条小橋を少し下がり、ちょうどTIME'Sから木屋町通りをはさんだ向かいに、飲食店の喧噪をよそにひっそりとたたずむ小さな門のお寺があります。それが瑞泉寺です。

DSC00574_R_20110413112028.jpg 〈瑞泉寺〉

何の気なしに前を通っていたはずの、このお寺の存在を知ることとなるのは、先に紹介した甲斐庄楠音の未完の大作「畜生塚」によってでした。

「畜生塚」は四曲一双の屏風絵(大きさ1552×576)で、1915(大正4)年頃、甲斐庄楠音が20歳そこそこだった1915(大正4)年頃の作といわれています。

畜生塚 1915年頃 左 京都国立近代美術館 畜生塚 1915年頃 右 京都国立近代美術館
〈「畜生塚」 1915年頃 京都国立近代美術館所蔵〉


楠音には同じ頃に描かれ、未完となっていた大作がもうひとつありました。同じく京都国立近代美術館が所蔵する六曲一隻の「虹のかけ橋(「七妍」より改題)」(大きさ1080×370)という屏風絵です。

楠音の人生の中で、最後の大々的な個展となった「甲斐庄楠音回顧展」が東京日本橋の三越で開催されたのが、1976(昭和51)年、楠音82歳の時。映画界に身を投じていた際に知り合った文化人サークル「山賊会」の粋な面々の計らいで“生きながらの遺作展”ができることになったのです。

彼は展覧会の開催が決まってから、「虹のかけ橋(七妍)」と「畜生塚」を60年ぶりに完成する作業に取りかかります。
七人の絢爛たる衣裳を身につけた太夫たちが、落ちていた文を読んで様々に詮索している様を描いた「虹のかけ橋(七妍)」。その七人の太夫の顔をすっかりと洗い、描き直し・・・。まさに老体にむち打ち、最後の画家としての意欲を注ぎ込み、完成させます。

IMG_0002_20110413112112.jpg
〈甲斐庄楠音「虹のかけ橋(七妍)」の一部〉


ところが、「虹のかけ橋(七妍)」に全精力を注ぎ込んだためか、もうひとつの大作「畜生塚」は結局、完成を見ることはありませんでした。

そもそも、この「畜生塚」は太閤秀吉の甥・豊臣秀次(秀吉の姉・日秀の子)にまつわる哀しい物語を描いた、いえ、描こうとした作品だったのです。

DSC04996_R_20110413112114.jpg
〈瑞泉寺の門そばに建つ「豊臣秀次公一族終焉之地 旧三条河原跡」の碑〉





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