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日本画家 甲斐庄楠音 その5

2011年03月28日 00:58

溝口健二と甲斐庄楠音・・・。


「絵では食べられへん」と嘆いていた甲斐庄楠音が、1940(昭和15)年、映画『芸道一代男』(1941年公開)の時代考証を担当したことから、そのまま映画界へと転身し、監督・溝口健二と生涯の友となるのです。

戦争が楠音の絵だけでの生活に困難を強いた一方で、太平洋戦争開戦間近の1941(昭和16)年の春、松竹は特別プロダクション「興亜映画」をつくり、溝口健二を監督に『元禄忠臣蔵』を制作。実物大の松の廊下をはじめ、いくつものセットを作り、いまだ映画界は盛況そのものだったのです。
そんな中に、完璧主義者の溝口の傍で、小柄な着流しを着た洒落た男が、いつも矢立と和紙を手に付き添っていました。それが楠音でした。

シナリオの打ち合わせの際には、即興で和紙にスケッチを描き、古い衣裳や道具が必要となれば、溝口と二人で京都中の古着屋や小道具屋を探し歩いていたのだとか。

幼い頃からの歌舞伎・文楽好きを活かし、戦後、市川右太衛門の当たり役『旗本退屈男』の衣裳を作り出し、また風俗考証を担当した『雨月物語』は1953(昭和28)年にヴェネツィア映画祭銀獅子賞を受賞し、同作で1955(昭和30)年には米アカデミー賞衣裳部門にノミネートされるという栄誉を手にしました。

衣裳考証に関しては、楠音の意見がそのまま権威主義者であったはずの溝口にも受け入れられるほど信頼され、女優の着付けまでをもこなし、温厚な楠音は皆から「カイさん」と親しみをもって呼ばれていたそうです。


晩年の甲斐庄楠音 〈80歳頃の甲斐庄楠音〉

ちなみに甲斐庄楠音は未確認ながらいくつかの映画にも端役で出ているようで、『娘十八嘘つき時代』(監督・清水宏、1949年)、『慶安水滸伝』(監督・野村芳太郎、1954年)、『柳生旅日記 天地夢想剣』(監督・萩原遼、1959年)などに名前を見ることができます。

また、新藤兼人が溝口健二の生涯を取材したドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年)には、新藤兼人にインタビューされる映画関係者の一人として楠音が短い時間ですが映っています。その際のテロップには“甲斐庄”ではなく、本姓の“甲斐荘”が使われていますが、厳密ではないものの、画家としては“甲斐庄”を、映画関係の仕事には“甲斐荘”をと、名前の使い分けがなされていたようです。

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〈『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(監督・新藤兼人、1975年〉より。自室で新藤監督にインタビューを受ける甲斐庄楠音。亡くなる3年ほど前のことです〉





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