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日本画家 甲斐庄楠音 その4

2011年03月28日 00:56

「穢い絵事件」とは・・・。


甲斐庄楠音の人生に後々まで重い十字架となって背負うこととなるのが、「穢い絵事件」です。

1922(大正11)年には帝展に「青衣の女」が入選し、若くして絶頂期にさしかかろうとしていた楠音のプライドを地に踏みにじる痛恨事が起こります。
1926(大正15)年、国画創作協会の第5回展に出品した「女と風船」(のちに「蝶々」と改題)が、会を主宰していた土田麦僊によって“穢い絵”だとして出品を拒否されたのです。

開催の前夜、楠音は友人たちと、横浜で香料の会社を営む実兄・楠香の家に泊まっていました。明くる朝、意気揚々と上野の美術館へ乗り込み陳列場へ入ろうとした楠音に、声がかかります。土田麦僊によって「女と風船」の陳列が断られたというのです。
すぐに楠音は、出品作品の仕上げをしていた麦僊のいる寺を訪れます。楠音の再三の懇願も、「ああ、あれは困りましたね。穢い絵は会場を穢くしますからね。あれは遠慮してください」の一点張りでした。

新境地を踏み出したと思っていた自信作だっただけに、そのショックは尋常でありません。
それ以降、「穢い絵で綺麗な絵に勝たないかん」「京の千菓子のような、友禅の模様のような絵を追っ払わねばならん」と意気込み、麦僊一派への批判を一身に担っていくのです。

女と風船(蝶々) 1926年 〈「女と風船(蝶々)」 1926年〉

残念ながら、この絵は焼けてしまったと伝えられ、現在はモノクロ写真でしか見ることができません。

そもそも麦僊は、以前より耳にしていた楠音の男色や女装癖を嫌い、そして画風そのものに抵抗を感じていたようで、それが、東京の上野の美術館で感情的に爆発してしまったのです。

京風の豊かで雅な家に育ち、人形遊びをし、芝居に興じ、自ら女形を演じる楠音。
一方、貧しい佐渡の田舎から出てきて、祇園の色街や芸妓に幻想を抱き続け、舞妓と結婚することとなる麦僊。

自ら女性を演じることで、知らず知らずのうちに女性性を内に取り込み、自然と女性の内面を描き出していた楠音に対し、花を愛でるように女性を描く麦僊。二人の趣味や趣向が違うのは当然のことでした。

「楠音は、穢さからこそ、毒茸の華麗な傘も、泥から咲く蓮華も生まれるのだといいたかったであろう」(栗田勇・著『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』より)。この栗田氏の一文が全てを語っています。


太夫に扮した甲斐庄楠音 〈太夫に扮した甲斐庄楠音〉


国画創作協会は第7回展で解散し、楠音ら若手は解散と同時に1928(昭和3)年、新樹社を設立しますが、それも1930(昭和5)年には解散。
その後、細々と展覧会に出品する生活が続いていた楠音に最大の転機が訪れます。1940(昭和15)年、楠音46歳の時、映画監督・横溝健二と出会うのです。






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