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哲学者 土井虎賀寿 その4

2011年04月08日 00:57

土井虎賀寿の行った仕事の中でも、まがう事なき大仕事は、「華厳経」六十巻のドイツ語訳でした。


土井が学習院の講師となった同じ頃の1953年。東大寺塔頭観音院の住職・上司海雲(かみつかさ・かいうん、1906年-1975年)の委嘱により「華厳経」のドイツ語訳に取りかかります。そして翌年には大仏開眼千二百年記念事業の一環として東大寺の宗会で正式に決定し、当面の二年間、月二万円の手当が土井に支払われることが決まったのです(もちろん膨大な量の六十華厳のドイツ語訳が二年間で完了するとは誰もこのとき思っていたなかったようですが)。
大方広仏華厳経の旧訳六十巻をドイツ語に翻訳して、西欧の宗教・思想関係の機関や大学に贈呈しようとする壮大な企画でした。

そもそも、上司海雲(のちの華厳宗管長・東大寺206世別当)という人は、文化・芸術に造詣が深く、志賀直哉のつくった文化人サロンである“高畑サロン”を引きぐかたちで“観音院サロン”を展開し、奈良の文化向上に努めた人物でした。
自身も、龍谷大学英文科を卒業し、「華厳経」の英訳を試みるほど、仏典敷衍に関心と意欲はあったのですがあまりの難仕事に断念し、その思いをドイツ語訳という形にかえ土井に託したのです。

大仏開眼記念事業の一環として企画されたこの仕事は、本来予定されていた年より十年後の1963年に完了します(しかし、仏典の多さからすると、十年の年月での完成も驚くべき早さなのです)。六十華厳経のドイツ語訳は大学ノート150余冊に及ぶ膨大な量となりました。

完成した草稿は東大寺の図書館に長年納められていましたが、土井没後の1975年に旧制三高や最後に教鞭を執った獨協大学の関係者を中心に五百人がカンパを出しあい、本にしたいという土井の悲願を叶えようと動き出します。そして、着手から二十五年後、完成から十五年後となる1978年に、「華厳経」の中でも約三分の一にあたる最後の入法界品の部分が『DAS KEGON SUTRA』(限定千部)として刊行され、(土井の仕事の一部分ではあるものの)日の目を見ることとなったのです。


以下の記事が『DAS KEGON SUTRA』の刊行を紹介した書評欄です。

20110324012929de8[1]
〈「日の目みた華厳経の独語訳」土井虎賀寿氏の遺稿  1978年8月10日付『朝日新聞』〉


この新聞記事のなかで、土井の娘・土井佐保さんは「父は緊張の持続で、どうして頭がこわれないかと不思議でした。何か考えはじめると、他のことに興味が全然いかないんですね。そして仕事が終わるといつも病気になる」と当時を回想しています。
また、天野貞祐に請われ、土井の翻訳の手伝いを頼まれた学習院大学教授のロベルト・シンツィンガー氏は「ドイは何週間もみつからないことがあった。彼の家族さえ、彼がどこにいるのかを知らなかった。あとになって、彼がどこかの静かな山の寺院で翻訳に没頭していたり、またある時は有識の高僧と論じあっていたことが明らかになった」と振り返っています。


まあ、ここで話が終われば、崇高な仕事を全うした大人物として語り継がれるのですが・・・、

当初は月二万円もらっていた手当も、三万円、五万円と土井の要望の通りに増えていき(その間も、たびたび上司海雲の元に手当の前借りを頼みに行く始末で・・・)、さらに翻訳が完成すれば完成したで、今度は著作権の所在が気になって、寺側からはそれに対し都合のよい返事がもらえなかったことに腹を立て、本になっても印税が出なければ無償の行為になると息巻いたりして・・・・。
そもそも、東大寺側は土井の訳稿を月々の手当で買い取っているつもりであり(月二万や五万という手当の額は、決して少ない金額ではありませんでした)、両者の間に契約書も覚え書きも取り交わされていなかったことが、土井の都合のいい思い違いになったようです。

それでいて土井自身はといえば、ドイツ語の堪能な教え子・粟津則雄にニーチェ等の翻訳を手伝わせては、「これで時間が半分ですむ」と喜ぶくせに、粟津と共著とする意志や印税を分ける気はさらさらないという利己的な態度だったとか・・・というか、そこまで頭が回らない人だったのです(苦笑)。


さて、ここまでの逸話で“奇人”や“金にルーズ”といった印象ばかりが残ってしまいましたが、最後に土井虎賀寿の名誉を少々、回復させておきましょう。

彼の教え子の中には、哲学者や文学者ばかりでなく、1973年に「ノーベル物理学賞」を受賞した江崎玲於奈もいました。
江崎は旧制同志社中学校を卒業後の1942年に第三高等学校に入学します。そこでの担任が土井虎賀寿だったのです。

文部科学省が発行する『平成19年版科学技術白書』の中の「個の創造性を大切に」と題したコラムでは、江崎玲於奈は土井虎賀寿を次のように紹介しています。

私は18歳の時、戦時中でしたが、旧制第三高等学校で土井虎賀寿(とらかず)という学内では有名な先生の名講義に感動した覚えがあります。「論理学は古代ギリシャに始まる。最初に触れたのはソクラテス、次いで、その弟子プラトン、さらに続いて、その弟子アリストテレスの手で進展した。」講義に使った彼の著書「原初論理学―ヘーゲル的ロゴスの発展」のはしがきに、自分は青春の十幾年、心血をしたたらせながら、労苦の限りを尽くして仕上げたと記しておられました。この彼の理想に燃えて学問に取りつかれた心は学生たちの心をもとらえて離さず、われわれを論理の世界に引きずり込みました。このように、「サイエンスに取りつかれた心」を持つ先生こそが高校生に「サイエンスの心」を伝えることができるのです。

また、『読売新聞』2010年10月5日付朝刊の「時代の証言者」と題された、江崎の生い立ちを紹介したコラムでも次のように、土井が語られています。

担任だった哲学の土井虎賀寿先生のことは忘れられません。ニーチェの研究で知られ、「生成の形而上学序論」などを書かれた先生は、月給のほとんどを書籍の購入に費やされていたとか。「論理学は僕にとって、僕の瞳が最後の陽光に揺れる瞬間に完成できればいい仕事である」ともおっしゃっていました。
こんな言葉を語る先生に、学生は感動せずにいられません。論理を究めようとする先生の姿に、やはり論理を積み重ねて進歩を続けるサイエンスの精神が重なりました。

おそらく、江崎が学んでいた頃の土井は学究の徒として、もっとも光彩を放っていた時期だったのでしょうが、ノーベル賞を受賞した教え子に、ここまで言わせる土井虎賀寿。やはり、ただ者ではないですねっ。






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