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哲学者 土井虎賀寿 その3

2011年04月08日 00:56

京都大学創立五十周年の記念講演で田辺元に愛想を尽かされた翌年(1948年)、土井の関心も哲学から文学へと移っていたこともあり、ボードレェル研究のためフランス文学の大家である辰野隆に弟子入りすべく土井は妻子を京都に残し、単身で上京。東京大学文学部仏文科大学院に入学します。“教師から学生への転身”という、突飛もないこの行動が朝日新聞の「天声人語」で取り上げられ、一躍、土井は時の人となるのです。

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エスカレーター式に「大学教授」への昇格を夢みる先生の多い時世に、高校教授が進んで一学生に逆もどりしたという話がある。たしかに一服の清涼剤である。三高教授土井氏が知友へよこした通知状には「志を新たにして再び学生として勉学いたしたく」とあるそうだ。二十年の講壇生活を棄てゝ、もう一度顔を洗つて出直そうというわけだ。人生五十に近く花木春過ぎて夏すでに半ばとなる。「起つて禅とうをたずねて清風に臥さん」というのが古来日本人好みの心境だつた。土井氏はあえてこの道を行こうというのである。日本は今お互いに顔を洗つて出直さねばならぬ時だが、冷たい水で顔を洗うのをいやがる者も少なくないようだ。(中略)昔、八幡太郎義家は「好漢おしむらくは兵法を知らず」といわれて発奮、大江匡房についてイロハから兵法を学んだと伝えられる。先生が自ら兵法を知らないようでは、生徒より年の多いということが、たつた一つの取柄になつてしまうだろう。

『朝日新聞』1948年4月13日付「天声人語」より

この「天声人語」を書いたのは当時、朝日新聞の論説委員でフランス文学者でもあった吉村正一郎でした。吉村は三高、京大の出身で、土井よりも2年後輩という、全く知らない間柄でもなかったのです。

ただし、これほど朝日新聞で持ち上げられ、世間からも注目された土井でしたが、世事に疎い彼は一つ大失態をしていました。師と仰ぐべき辰野隆は入学の前年、東大を定年退官していたのです。笑い話にもならない、すれ違いでした。

そして、辰野のいない東大大学院に身を入れて通うはずもなく、時代の寵児となっていた土井の元には、原稿依頼が殺到。
と同時に、自分を捨てた田辺元率いる京都学派への嫉妬による批判と否定も始まるのです。これが「反逆児」と呼ばれる由縁でもあります。当初はそんな姿勢がおもしろがられていたものの、浪費癖と度重なる原稿料の前借り、さらに哲学者としては有能であっても、文学者としての言葉は持ち合わせていなかったことから、一般雑誌や世間からは徐々に飽きられ、常にお金には不自由していました。

三高教授、京大講師の職をなげうって上京した五年後の1953年からは天野貞祐の推薦で学習院大学文学部講師となり、それと同時に相模女子大学教授の職を得ます(あのまま、京大に勤めていれば早晩、京大教授になれていたでしょうに、何のために上京してきたのだか・・・)。

学習院講師時代の初めは、聴講生も多く、大変盛況だったようです。生地のすり切れたズボンに手ぬぐいをぶら下げ、無精髭にベレー帽を被った放浪画家風の風貌。土井のうらぶれた格好が、ブルジョアの師弟が多い学生の興味を引くのは必定でした。

しかし、教師の身でありながら躁状態になると「哲学者をやめて絵描きになる」と言い出し、日常生活品を詰め込みいつも持ち歩いているズタ袋と、画用紙を挿した大判の画板を手に身をくらますという生来の放浪癖や、幾人かが共同で使用する講師室を独占したり、宿泊してはならない研究室に宿泊するという規則違反を繰り返したり・・・大学でも周囲との摩擦をたびたび引き起こします。

また、土井の三高講師時代の教え子(土井自らが言うところの“弟子”)には、竹之内静雄、野間宏、青山光二、粟津則雄、田宮虎彦らがいて、東京に住む彼らは土井の躁状態には何らかの被害を被る人たちでもありました。突然の予期せぬ訪問を受け、交通費と称して金をせびられたり、絵描き気取りの土井のデッサンを買わされたり・・・と(笑)。

さらには、時代の寵児となって浮かれていた土井は、妻子が東京に出てきているにもかかわらず、担当となった女性編集者につきまとったり、武田泰淳の妻となる鈴木百合子(後の武田百合子)に一方的に恋心を抱き、京都で一緒に住むことを夢想し、部屋を借りたり・・・。武田泰淳と結婚する前の武田百合子は、出版社である旺森社に就職するも、社長が経営していた隣の喫茶店「ランボオ」の女給として働いていました。この作家が集まる喫茶店に連れてこられた土井に見初められてしまったのです。

度重なる奇行と周囲との摩擦のため学習院大学講師の職さえも失う土井でしたが、1964年には新しく開学した獨協大学に外国語学部の教授として迎えられます。獨協大学の学長が天野貞祐で、彼の強い推薦で、ドイツ語学科のドイツ語と一般教養科目の哲学を担当できることとなったのです。

といっても、そこでの授業も高校を出たばかりでドイツ語のドの字も知らない学生にゲーテ詩集をドイツ語のまま講読するといった講義をしたり、また講義は一貫してノートや文献のたぐいを用いず、滔々と観念が観念を呼ぶようにして一時間でも二時間でも哲学論議をしゃべり続けていたという、ハチャメチャぶりだったようですが。


なお、京都学派の人間関係については、竹田篤司・著『物語「京都学派」』(2001年、中央公論新社刊)に詳しく記されています(土井虎についての記述は多くありませんが)。

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〈『物語「京都学派」』(著者・竹田篤司、2001年、中央公論新社刊)〉






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