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哲学者 土井虎賀寿 その2

2011年04月08日 00:55

では、『われらが風狂の師』(著者・青山光二、1981年、新潮社刊)の記述を中心に、土井虎賀寿の経歴を詳しくたどってみましょう。


土井虎賀寿の旧姓は、久保(愛称の“土井虎”となるのは、三高講師となった三年後の1932年に土井杉野と結婚し、さらにその半年後に婿養子となって改姓してからのことです)。
土井は1902年、香川県高松の医師の家に生まれ、医師を目指して京都の旧制第三高等学校理科乙類に入学します。
三高を卒業後、京都帝国大学理学部で一年間、植物学や物理学を専攻したあげく自分にその分野が向かないのを見極め、文学部哲学科に改めて入り直し、西田幾多郎門下となりました(哲学科の学生だった土井はしばしば西田邸の留守番を頼まれ、西田の蔵書を読みあさったのだとか)。

201103240132522ce[1] 〈京都大学〉

1926年に京大を卒業すると、いったん故郷の高松に戻り、女学校の英語教師となります。その際、異父兄の世話で結婚をしました。就職の条件が妻帯者でなければならなかったのです。相手は地元でも評判の美人でした。
妻は従順で、土井(当時は久保)にも表だっての奇行は見られず、平凡で幸せな結婚生活を送りますが、結婚して二年後、妻が風邪がもとでの急性肺炎で死去。土井の悲嘆は相当なもので、自殺未遂を起こして新聞ダネとなり、教職にとどまれなくなって、京都に舞い戻ってきたのです。

失意で呆然と暮らしていた土井がもう一度哲学の世界に身を置こうとしたのには、たまたま知り合いになった同年輩の高山岩男(のちの「京都学派四天王」の一人)の学問に対する情熱に触れたからで、土井は哲学科大学院に籍を置き、特待生として研鑽を重ね、同時代に同じく大学院にいた高山や下村寅太郎、さらには西谷啓治をもさしおいて、「俊才」の名をほしいままにしていたのだとか。

1929年には三高講師となり、1932年に土井杉野と結婚。妻の杉野は東北大学法文学部に在籍していた才女で、京大教授の天野貞祐(第3次吉田内閣では文部大臣を務めました)が、杉野と土井虎賀寿(当時は久保虎賀寿)を結婚させようと画策し、その思惑通りに天野の仲人で結婚をしたのです。しかし土井と、東北大学を中退して結婚に踏み切った知的な妻との相性はあまりよろしくなかったようで、土井はことあるごとに人に対して妻のことを「悪妻」と言いふらし、いつも「離婚する」と喚いていたそうで・・・それでも二人は終生添え遂げました。

月給の全部を本代につぎ込み、京大近くの洋書専門店で教師の中で一番原書を多く注文するという噂がたったのも三高講師の頃でした、また教え子の竹之内静雄(筑摩書房の第二代社長)や野間宏は吉田山中腹にあった土井家を頻繁に訪ね、特に竹之内は留守番を頼まれて泊まり込むこともたびたび。根太が落ちそうなくらい家中に充満している書物を物色しては時間を忘れて読みふけったと回顧しています。

1941年から三高教授、京大講師となっていた土井は、1947年に京都大学創立五十周年で記念講演を行います。
当時、分野を異にする将来を嘱望された三人の新進学者が講演では登壇し、哲学者の代表として抜擢されたのが土井だったのです。これは師である田辺元の推挽によるもので、京都学派としていかに彼に期待がかかっていたかが伺われます。しかしその講演の後、師の田辺元から彼に対して一言のねぎらいの言葉もないばかりか、田辺が知人に「いやな感じだったな」「ああいうのは、わたしは、いやだ」と漏らしたことが、土井が三高教授、京大講師の職をなげうって、東京大学文学部大学院に入学する原因になったとされています。
土井の自己中心的で癖のある話し方が、田辺にとっては無性に鼻について虫が好かなかったのです(何を今さら、という感じですが)。

本来、西田幾多郎の弟子だった土井ですが、西田の後継者であった田辺によって認められ世に出た経緯がありました。彼の処女作『「ツァラトゥストラ」羞恥・同情・運命』(1936年、岩波書店)が出版されたのも田辺の推薦があったからで、西田亡き後、京都学派の最高権威たる田辺にそっぽを向かれては、もはや土井の居場所は京都にはありません。京大アカデミズムのなかでの出世は断たれたと言っても過言ではなかったのです。

そうでなくとも、同僚とも言うべき、西谷啓治、高山岩男、高坂正顕、大山定一らはすでに京大教授、助教授となっていて、冷や飯食いの“万年講師”は土井ただ一人という状況も学生時代「俊才」の名をほしいままにした土井としては我慢ならなかったのでしょう。
奇人と呼ばれるだけあって、世事に疎く、学内での政治や人間関係には無知で無能力だった土井だからこその出世の遅れだったともいえそうです。






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