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梶井基次郎 その3

2011年06月06日 00:49

梶井基次郎の完成された作品で、京都を舞台にとったものは、「檸檬」と「ある心の風景」の2作のみです。

「ある心の風景」について中谷孝雄は、「あの作品を単純な私小説のやうなつもりで読み過してゐる人があるとすれば、とんでもない誤りを犯してゐるものといはねばならない」と断言しています。
梶井の小説『ある心の風景』には、さういふ女から悪い病気をうつされた学生のことが書いてあるが、あの作品はいはゆる私小説ではなく、梶井がさういふ悪い病気に罹つたことは一度もなかつた。あれは、友人から聞いた話をそのまま作中にとり入れ、梶井流に生かしたものであつた。
(『梶井基次郎』本文より)
そして、その友人とは、一級下の浅見篤(小説家・浅見淵の弟)という人物で、酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが、梶井とよく似ていて気も合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ「レーヴン」で飲んでいたというのです。
「ある心の風景」にある、“病気の話”や“朝鮮の鈴の話”は、すべて浅見から聞いた話を「完全に自家薬籠中のものとして駆使してゐる」(『梶井基次郎』本文より)といい、また、梶井の習作「瀬山の話」も浅見を念頭に書かれていると中谷は語っています。しかし、遊郭でもらった病気のことを著書で暴露された浅見篤も災難ですね・・・(笑)。

他に、作品の傾向を読み取る記述として、梶井作品にたびたび登場する“旅情”という言葉についても興味ある記述を中谷はしています。梶井は三高時代の終わり頃から松尾芭蕉を読み出し、芭蕉文学が彼の寝覚めの友となっていたことが“旅情”という言葉として影響していたのではないかと中谷は推察しているのです。


あえて、中谷孝雄著『梶井基次郎』から京都時代のことを中心に紹介しましたが、その他にも、東京帝国大学時代や、同人誌『青空』のこと。さらには湯ヶ島での療養生活とそこで出会った川端康成、宇野千代との交流。そして失意のうちに大阪に戻ったあとの様子など、『梶井基次郎』にはつぶさに梶井本人の様子が詳しく描かれていて、ファン必読の一冊です。


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〈近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」〉

最後に・・・、生前は全くの無名だった梶井基次郎が“近代文学の古典”と称されるほど有名作家となった背景には、多くの友人たちの尽力がありました。

梶井が長年患っていた肺結核の上、流感に罹かり、悲観的な状況に陥ったのが1931(昭和6)年1月。大阪の実家で高熱に襲われ、病床に伏していた梶井を、三好達治が見舞います。詩人として名をなす三好もまた、梶井と同じように三高、東大と進み、梶井らが主宰する同人誌『青空』に参加をした盟友のひとりでした。
「なんとかして、生きているうちに本を出してやりたい」と三好は淀野隆三に相談し、武蔵野書院に交渉、出版にこぎつけます(梶井本人はそれほど、本の出版には乗り気ではなかったのだとか・・・)。
そして5月に出版されたのが作品集『檸檬』でした。
本の売れ行きは芳しくありませんでしたが、同じく『青空』の同人であった詩人の北川冬彦が中央公論社の編集者に梶井の本を紹介し、10月には『中央公論』より執筆依頼が届きます。そして完成したのが昭和7年1月号の『中央公論』に掲載された「のんきな患者」だったのです。これが梶井にとって唯一のメジャー誌での掲載作品で、原稿料をともなう真の作家としての作品でもありました。
「のんきな患者」は、正宗白鳥や直木三十五によって新聞の文芸時評でも取り上げられ、さらに小林秀雄にも論じられ、ようやく小説家として立とうという時、容体が急変し、亡くなります。1932(昭和7)年3月24日、31歳でした。

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〈2000(平成12)年に刊行された筑摩書房の『梶井基次郎全集』〉

梶井の死は、葬儀が終わったのち近親者から友人たちに知らされ、中谷は4月1日に弔問へと大阪に向かいます。
「彼は死の少し前たいそう苦しみ、むづかつたさうだ。しかし母堂が、あなたもまんざら平凡な人ではないのだからもういい加減に覚悟しなさいと諭すと、それからは観念ができたかすつかり静になり、眠るがやうに息を引取つたということであつた。」(『梶井基次郎』本文より)と弔問時に聞いた梶井の最期を伝えています。

弔問の際、「いずれ機会があれば全集を出したい」という思いから、中谷は梶井が書き残した日記や原稿一切を預かって東京に帰ります。そして完成したのが、1934(昭和9)年に六蜂書房から上下2巻で出版された全集(限定530部)で、未発表の草稿や日記、書簡も収録されました。

その後も、中谷や淀野を中心に、幾たびも梶井基次郎の全集は編纂されます。1936(昭和11)年に作品社から全2巻が、1947(昭和22)年に高桐書院(淀野が京都に興した出版社で、ほどなく倒産)から全4巻(淀野が中心に編まれる予定であったものの途中で頓挫し、2巻のみが刊行)が、1959(昭和34)年に筑摩書房から全3巻が、そして2000(平成12)年には同じく筑摩書房から全3巻と別巻の全集が40年ぶりに刷新され、出版されました。





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