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梶井基次郎 その2

2011年06月06日 00:48

さて、中谷孝雄著『梶井基次郎』から、当時の三高生の散歩コースを紹介しましょう。梶井らよりも10年ほど遅れて三高に学んだ小説家・田宮虎彦の作品にも同様のコースが記されています。そして散歩コースはそのまま、梶井文学の舞台ともなっているのです。

吉田の学生町を抜けて丸太町通りへ出、両側に古本屋の並んだその通りを寺町通りとの交叉点に向かつて西進するのであつた。(中略)

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〈熊野(東大路通りと丸太町通り)の交差点〉

丸太町通りから寺町通りへ出て、その通りを南下していくと、二條通りとの交叉点の一角に鎰屋といふしにせの菓子屋があり、その二階は喫茶店になつてゐた。そこにはお朝さんという美人の女給さんがゐて、私たち三高生の間ではモルゲン(ドイツ語の朝)と呼ばれて大そうな評判であつた。私たち(梶井と私と)は、必ずといつてもよい程その喫茶店へ立寄ることにしてゐたが、どちらもモルゲンに特別の好意を寄せてゐたからといふのではかなつた。ただ習慣的にそこでひと休みすることになるのであつたが、吉田町からここまでやつてくると、ちやうどその程度に快く疲れを覚えるのでもあつた。(中略)

DSC04873[1]
〈寺町二条の交差点。小説「檸檬」でレモンを買った八百卯と、鎰屋のあった場所〉

寺町通りを更に南下すると新京極へ出る。当時の新京極には劇場と映画館とが、どちらも五つか六つづつあつたが、梶井と映画や芝居を一緒に見た記憶はほどんどなく、大抵はそこを素通りして四條の明るい大通りへ出るのであつた。そして金さへあれば菊水とか東洋亭とかいふレストラン(カフェといふべきか)へ立寄つて、梶井は酒を飲み、私はまたしてもコーヒーや紅茶を飲むのであつた。

201104131231515fb[1] 〈四条大橋〉

やがてそこを出た私たちは、四條通りを円山公園へ向かひ、そこから更に岡崎公園をさして行くのであつたが、その道は東山の麓に沿ひ、老樹に覆はれた暗い淋しい通りであつた。そこまで来ると梶井はよく歌をうたつた。(中略)

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〈祇園石段下と呼ばれる八坂神社前の交差点〉

岡崎公園へ出て、正面の平安神宮の裏へ廻ると、やがて吉田の学生町であつた。ざつとかういふのが当時の私たちの散歩の道筋であり、距離にすれば二里ぐらゐはあつただらう。この長い道を、ほとんど一週間に一度か二度(少し誇張していへば毎夜のやうに)歩いたのだから、思へば当時は達者なものであつた。しかしそれは私や梶井だけのことではなく、吉田町に下宿してゐた三高の学生ならば大抵は昔、夜の散歩といへば私たちとほぼ同じやうな道順を選んだものであつた。

(中谷孝雄著『梶井基次郎』本文より)


高校を二度も留年し、卒業も危ない梶井が最後にとった手段は、試験が済むと人力車に乗って片っ端から教授を歴訪し、卒業を頼み込むことでした。
胸の病気のために歩くのが苦しいことを示すためにわざわざ人力車に乗つていくのであるが、帰りは真直ぐ例のカフェへ来て、それこそからだが悪くなるほど酒を飲むのであつた。そして翌日はまた人力車に乗つて教授を訪ねるのである。かういふ日が三・四日も続いたであらうか、その甲斐があつて梶井はやつと学校を卒業した。教授たちは梶井の仮病にまんまと瞞された訳であるが、もう一つ、梶井が大学は理科系ではなく文科へ進むといふので、それならばと大目に見てくれたのでもあらう。
(『梶井基次郎』本文より)
しかし、この時の梶井の行動はその後十年ほど経って、学校中の美談として校長から全校生徒へと語り継がれることになるのです。動けないほどの病気をおして立派に試験を受け通した人物として・・・(笑)。



DSC04891[1] 〈かつて「丸善」のあった三条麩屋町〉

「檸檬」の舞台となり、梶井お気に入りの店が「丸善」(当時の場所は三条麩屋町西入)です。店内での梶井の様子を中谷は次のように伝えています。
私たちは散歩の途中、よく丸善へ立寄つたものであつた。しかしここでも私は、ただざつと新刊の小説類に目をさらすだけであつたが、梶井はセザンヌだとか、ゴッホだとかルノアールだとか、さういつた画集を棚から抜き出して、丹念に眼を通していた。そんな時の梶井は、もはやそこが丸善の売り場だといふことを忘れたかのやうに、いつまでもそれらの画集に没入してゐるのだが、私は時間をもてあまし、こいつ厚かましい奴だなと、呆れもし、腹を立てもしたことであつた。また時とすると彼は、西洋雑貨の売場の方へいつて、万年筆だとかナイフだとか鉛筆だとかポマードだとか香水だとか、そんなものを一つ一つ丹念に見てまはつてゐたが、その種のものに何の興味もない私は、またしてもぢりぢりさせられるばかりであつた。
(『梶井基次郎』本文より)
この姿は、そのまま「檸檬」の主人公の姿と重なります。当時の丸善は書店としてだけではなく(まあ、今もそうなのですが)、一級の舶来品も数多く扱っていて、当時学生ながらに高級時計のウォルサムを愛用するほどの趣味人であった梶井にとって、居心地のいい空間だったようです。


そして舶来趣味の梶井が、兄のように慕った人として忘れてはならないのが、近藤直人という人物です。
1921年(大正10)年、梶井は春休みを利用して紀州湯崎温泉へと旅行し、そこで4歳年長で京都帝国大学医学部の学生であった彼と知遇を得ます。西洋音楽や西洋美術に造詣が深く、興味を持っていた梶井でしたが、不幸にも梶井のまわりで彼の趣味を解する人間はいませんでした。しかし、旅行先で知り合った、近藤とはお互いの趣味も合い、大いに刺激を受けます。
京都での学生時代には、近藤直人の所有する蓄音器とレコードを聴かせてもらいに行くことが梶井の楽しみのひとつで、その後、梶井が京都を離れても、主に手紙を通じて交流はつづき、悩みを打ち明けては励まされていたのです。
「檸檬」の文中にある「蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。」という部分は、近藤に聞かせてもらった蓄音器のことを頭に描いて、つづられたのかもしれませんね。





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