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梶井基次郎 その1

2011年06月06日 00:47

梶井基次郎 著者・中谷孝雄 1961年

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 〈『梶井基次郎』 著者・中谷孝雄、1961年、筑摩書房〉

中谷孝雄の著書『梶井基次郎』(1961(昭和36)年、筑摩書房刊)は、小説家・梶井基次郎(1901年―1932年)の人ばかりでなく、作品を知る上でも、もっとも重要で興味深い一冊です。

小説とも、随筆とも、評伝ともとれる単行本ですが、こういった最も身近で梶井に接してきた人の文章に触れてしまうと、あらすじをなぞっているだけの論文や、憶測ばかりの研究書なんて、あまり意味をなさないですね。論文や研究書に書かれた梶井の学生時代の逸話や挿話は、ほぼこれら中谷孝雄や外村繁や淀野隆三らの著書から引用されているものばかりです・・・。



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〈三高の寄宿舎は、現在の京都大学吉田寮〉

中谷孝雄については、以前にも述べましたのでここでは詳しく語りませんが、1919(大正8)年9月(当時の学制では9月入学でした)、第三高等学校入学と同時に梶井と知り合い、深い親交は梶井が亡くなる1932(昭和7)年までつづきます。
また、エンジニアをめざして大阪高等工業学校電気科を受験するも不合格となり、三高の理科甲類(当時の高等学校は、文科と理科の両科があり、それぞれが甲・乙・丙の三類に別れていました。甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランス語を第一外国語として履修していたのです)に入学した梶井が、
10月、欠員が出たため寄宿舎(現在の吉田寮)に入寮し、そこで同室であったのが中谷との出会いでした(さらに同室には、のちに映画評論家の大家となる飯島正もいました)。
中谷は文科乙類の生徒で、梶井が文学へ傾倒することになった契機は、すべて中谷との出会いにあったようです。



DSC02386[1] 〈哲学の道〉

梶井は一年の三学期(4月)に寄宿舎を出て、吉田山の裏の下宿に移ります。そこは東山の緑が眺望できる部屋で、梶井はたいそう気に入っていたようです。銀閣寺から若王子へと、つまり現在の「哲学の道」を散歩し、「緑ノ夢ノ中ニクルマツテ匂ノアル交響楽ヲ聞ク様ダ」と友人の手紙に語っています。


中谷孝雄は二年生(中谷も梶井も一年の時に留年しています)の春から夏にかけての数ヶ月間、のちに妻となる平林英子と相国寺近くの下宿で同棲生活を行っていて、その部屋には毎日のように梶井が遊びに来ました。1921(大正10)年のことです。
その頃の梶井は病気の再発もあり、大阪の実家から電車で学校に通い、放課後や、時には朝から学校を休んで中谷の部屋で遊んでいました。中谷が記した『梶井基次郎』からは、むしろ中谷との友情よりも、平林目当てに(もちろん異性としての関心ではなかったのでしょうが)通っていた節が見受けられ、微笑ましくもあります。
通学の車中で見かけた片思いの女性への思いを、平林に打ち明けてもいたりして・・・。
また、梶井が汽車通学をやめて、吉田町に下宿していた時、中谷の父親が田舎から息子の暮らしぶりを見に来ることとなりました。厳格な家庭に育った中谷にとって、もちろん彼女との同棲は家には内緒のこと。困った中谷は、梶井の下宿へ平林を預けることにします。父親の三日間ほどの滞在中、何の不安もなく、恋人を梶井に預ける中谷も中谷ですが、それを引き受ける梶井も梶井です(笑)。
その後、中谷と平林が不和となって一旦別れることとなった際には梶井はたいそう惜しみ、またその後、復縁したと聞くといちばん喜んだのも梶井であったのです。



梶井基次郎の愛読遍歴は、中学時代の夏目漱石に始まり、森鷗外、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、倉田百三、滝井孝作、川端康成、松尾芭蕉、井原西鶴・・・。その中でも著しい傾倒は、志賀直哉、滝井孝作あたりにあったようです。

その一方で、梶井の京都時代の恋愛遍歴はというと・・・片思いばかりだったようで(苦笑)。

旧制北野中学時代には、父親の知人の娘である高等女学校の少女に憧れ、友人や兄に恋心を打ち明けるも、もちろん叶いません。
三高時代には、通学の車中で毎朝一緒になる女学生に恋愛めいた感情を抱き、自分の気持ちを伝えたいと平林英子に相談。そして、彼は行動にうつすのです。
「ある日、彼は通学の汽車の中で、ブラウニングか誰かの愛の詩集の一頁を裂いて相手の女学生に手渡したのださうであるが、翌日、読んでくれたかといつて彼女に訊ねると、彼女は『知りません!』とつんつんしてゐたといふことである。」(『梶井基次郎』本文より)
まあ、こんなやり方では女の子には、もてませんね(笑)。梶井もこの時の様子を自虐的に友人たちに披露していたことから、どれほど本気だったのかも窺い知れませんが・・・。
その後も、「江戸カフェ」のお初というバタ臭い美女に熱を上げるも、競争者が多くあえなく諦め、また「東洋亭」の芳枝という女性に好意を抱くも、ありふれた片思いに終わったと、中谷は振り返っています。
三年生になった梶井は、白川の下宿から、御所の東にある素人下宿へと移ります。その家の主は三十歳前後の未婚の小学校の女教師で、老母との二人暮らし。二階の六畳間を借りて生活をします。ここは「ある心の風景」の喬の部屋でもあるのです。

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〈御所の東・寺町通り。左が鴨沂高校、右が京都御苑〉

老婆も女教師も大そう親切で、娘の方は梶井が寝床で本を読んでいると電燈のコードを伸ばしてくれたり、枕元に座り込んで彼と話したがったりしたそうですが・・・、男女の関係にいたりませんでした。というのも、その女教師は顔立ちのあまりよろしくない、立ち居振る舞いの粗野な女性だったからだとか。

DSC00462[1] 〈動物園横の疏水〉

結局、二年生の時、中谷らと疏水にボートを浮かべて二條から動物園の石垣の下で月見をしたあと、街に出て酔っぱらったあげく「おれに童貞を捨てさせろ!」と祇園石段下の電車通りで大の字になって動かなかった梶井を、近くの遊郭(祇園乙部あたりだったのでしょう)へ連れて行き、その後、幾度か通うようになったことぐらいが、彼のせいぜいの女性遍歴だったようです。





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