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安井金比羅宮 その2

2011年03月25日 00:23

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さて、安井金比羅宮で有名なのが、この「悪縁を切る 縁切り 縁結び 碑」です。別名「断叶の碑」とも言うそうですが、この碑(いし)はそう古いものではありません。1981(昭和56)年に石刻画家によって造られたものです。
しかし、今では神札が貼りつけられたこの碑が、神社の顔となっています。

神札に願いを書き記し、表から裏に石穴をくぐると“縁切り”、反対に裏から表にくぐると“縁結び”だとか(笑)。そしてくぐった後に、石面に神札を貼れば願いが叶うのです。うまく考えられたものですね。

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〈高さ1.5メートル、幅3メートルの石碑で、中央に円形の穴が開いています。形代(かたしろ)とよばれる身代わりの神札が石碑を覆い、ある種壮観なのですが、その中には、人の不幸を祈るものも含まれているというのが・・・なんとも〉

ちなみに、「良縁に恵まれますように」や「悪縁を絶って幸せになれますように」と無難な願い事を書く人が多いのですが、
神札をわざと裏に向けて貼りつけているようなものには・・・うぅ~ん、怨念が漂っていますね。まあ、百円の神札で願いが叶うのなら安井、もとい安いものなのでしょうが。


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安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保元の乱に讃岐国へうつりましまして、御形見に束帯の尊影御随身二人の像を画て、かの地より皇后に送り給へり。其後天皇〔讃岐院とも申す〕配所松山に於て大乗経を書写し、和歌一首を添給ひて都の内に納めんとて送り給ふ。
浜千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院
然るを少納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書給ひ、かの経の箱に奉納龍宮城と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃て童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宣へり。夫より爪髪を截給はず、六年を経て長寛二年八月廿六日に崩御し給ふ、御年四十六、讃州松山の白峯に葬り奉る。〔以上保元記に見えたり〕夫より御霊此地に来て夜々光を放つ、故に光堂ともいふ。然るに大円法師といふ真言の名僧、此所へ来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ往事の趣を示給へり。大円これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊霊を鎮め奉り、光明院と号しける。仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿には後水尾院の宸影、明正院並に東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。
当寺の門前を新更科と号し、中秋には洛陽の騒客こゝに集りて東山の月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。

〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 安井観勝寺〉


最後に・・・、崇徳上皇の怨霊は近世、近代になっても、密かに影響をあたえてきました。
たとえば、孝明天皇は、幕末の動乱を崇徳上皇の怨念の仕業だと考え、配流の地(香川県坂出市)に祀られていた上皇の霊を鎮めるため、京都に御霊を遷すことを計画。しかし、孝明天皇がこの計画中に崩御したため、明治元年、明治天皇によって白峯神宮(上京区)が創建されます。
また昭和の世となってからも、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催の直前に、昭和天皇が崇徳天皇白峰御陵(坂出市)に勅使を遣わし、崇徳天皇八百年式祭を執り行い、開催の安全を願ったことは有名な話です。

201102101952568ef[1] 〈北の鳥居〉





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