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琵琶湖疏水

2011年04月24日 01:15

琵琶湖疏水 田宮虎彦 1949年


田宮虎彦の「琵琶湖疏水」は1949(昭和24)年12月、『女性改造』に発表された、ごく短い小説です。京都の三高時代を描いた「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」「比叡おろし」より数年先立って発表され、後者の三作が一人称の「私」を主人公としているのに対して、「琵琶湖疏水」は四人の学生の姿を三人称で描いた群像ものなのです。

しかし、うどんの玉を生で食べる貧乏話や、疏水で女学生と入水自殺する友人の話など、後に描かれる逸話が、すでに「琵琶湖疏水」の中に見られることから、いかにそれらが作者にとって印象的な出来事だったかをうかがわせます。

内容は昭和5、6年頃の、田中、酒井、八木、そして佐藤という四人の三高生を描き、タイトルは彼らがたむろする佐藤の家が鹿ヶ谷の疏水べりにあったことから。そういう意味では、「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」と舞台は、ほぼ同一ですね。


三人は喋りつかれると、疏水べりの道をあるいた。若王子から銀閣寺へ、銀閣寺から若王子へと行きつもどりつしたり、時には山肌の道を法然院の静かな庭にはいっていったりした。

DSC02405[1] 〈法然院〉

佐藤が日本画家の従姉と住む疏水沿いの家のそばには法然院をはじめ、寺社が多数点在し、散策するには趣深い地域です。法然院の墓地には、谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造ら著名人のお墓もあります。


寒い冬がそろそろしのびよって来ようという十一月初めのある夜、佐藤は集っていた三人につれだされて、新京極の方へ出かけていった。銀閣寺道から出る電車は東山通りを通る。佐藤を連れ出した三人は熊野神社前で電車をおりると、夜の町並みを、吹きぬける北風に身をこごませながら、丸太町通りを寺町まであるき、寺町通りを三条の方へ下っていった。

DSC03515[1]
〈東大路丸太町にある熊野神社〉

熊野神社から丸太町通りを西へ寺町まで行き、その後、南に向かって繁華街である新京極へ向かうコースは、大正から昭和にかけて三高生の散歩の定番の道筋でした。
この界隈は、田宮より10歳ほど年長の梶井基次郎らの小説や散文にもたびたび登場し、「檸檬」に出てくる八百卯も、この道筋にありました。


三人はやはり佐藤をかこんだまま、ひとかたまりによりそって先斗町の路地をぬけ、四条大橋を渡り南座の裏から川沿いの路地にはいっていった。
「三高さん、よっておいやす」と呼ぶ声が、狭い路地の両側から四人をとりかこんだ。佐藤もそこが宮川町であることは知っていた。だが、佐藤は、まだ三人が自分を娼家にともなってゆくことは知らなかった。

DSC03944[1] 〈現在の宮川町〉

三人に比べ、学校にも真面目に通う佐藤が、初めて宮川町で女を買いに行き、童貞を捨てる場面です。この頃の宮川町は遊郭として名高く、売春防止法の施行後、芸妓のみの花街へと変貌を遂げました。


さて、田中は学費の滞納で除籍処分となり、丹波峰山へと働きに出ます。八木は同志社女専の生徒と疏水で入水自殺を遂げ、そして酒井は出席日数不足で進学出来ず、親元の名古屋へと帰る途中に、夜汽車のデッキから振り落とされて死んでしまいます。
田宮作品らしい寂しい結末ですが、金がなく陰鬱で青白い学生の姿と、疏水べりをはじめとする京都の情景が、田宮虎彦独特の“暗いながらも瑞々しい”青春小説をかたちづくっているのです。





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