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島原(嶋原) その3

2011年02月14日 00:44

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 〈島原住吉神社〉

「島原住吉神社」は、もともと中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅に祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があると評判になり、享保17(1732)年に祭神を島原の西北に遷座し建立されたものです。
創建当時は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内だったものの、明治に入り神社株を持っていなかったことからいったん廃社となり、祭神は歌舞練場内に移されました。
しかし地元民の熱心な要請もあり、明治36(1903)年、船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興。ただし現在の狭い境内地となった上、正式社名も住吉神社は認められず、稲荷神社とされます。
その後、平成11(1999)年に社殿・拝殿を改修し、境内の整備がなされ、平成13(2001)年には、念願だった社名を島原住吉神社と改めました。

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「光乃屋」のお母はんの小菊が住吉さんの境内で首をつって死んだ。住吉さんには何時行ってもろうそくの灯が廓をんなの命のように小さく燃えていた。宵の口になると洗い髪をきりっと巻きあげて小菊もかかさずお燈明を上げて帰った。二三日姿が見えないのでおかしいなと神官の老婆が首をかしげていた矢先の事であった。小菊は昔クレゾールをのんで自殺しかけた事があった。首をつる事と消毒液をのむ事が廓では伝統的な自殺のやり方になっていた。十年前の失敗にこりて小菊は夜半に松の枝に縄をかけてぶら下がった。
(川野彰子著「色模様」より)



2011020519080939c[1] 〈島原西門跡〉

島原の入口は当初、東にある大門だけでしたが、享保17(1732)年には街の西側中央部に西門が設けられ、天保13(1842)年にはこの住吉神社のたもとに、(冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける高麗門型の)大門が建てられました。近年まで島原の旧観を伝えていましたが、昭和52(1977)年と平成10(1998)年、2度の交通事故により西門は倒壊し、それ以降は再建されていません。



2011020519084879a[1] 〈大銀杏〉

樹齢300年ともいわれる、島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈によって住吉神社が廃社になるも、神木として遺されました。その後、明治36(1903)年に神社は再興されますが、境内は縮小され、この大銀杏まで拡大されるには至りませんでした。

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昭和5(1930)年からは大銀杏の根元に弁財天が祀られ、樹高20メートルと島原一の巨木として威容を誇っています。

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藁を束ねて作った人形の胸に、毎晩一本ずつ、都合二十一本の釘をうちこんでくると、満願の日に呪いをかけて相手が息の根をとめてしまうと言いつえられていた。人形は、廃線になっている線路の向こうにある弁財天の、銀杏の木に打ちつけてきた。けれども夜中に一日もかかさず、願掛けに通うことは、並大抵の仕事ではなかった。
(川野彰子著「狂い咲き」より)





コメント

  1. ひろし | URL | -

    廓育ち

    小説も持っていますが、映画はものすごく見ごたえがあります。
    廓育ちと狂い咲きに、創作の部分があります。

    舞台となったお茶屋「末広」は、裏門(西門)すぐ横です。
    歌舞練場から輪違屋にかけての太夫道中の場面もあります。
    五条楽園の新妍芸者(売春防止法の抜け道)の逸話。
    当時の島原の町並み。
    国鉄の線路。

  2. miyakotenjin | URL | -

    映画の『廓育ち』は脚本の秀逸さと、主演・三田佳子の演技が冴えていましたからね。20代前半であんなに貫禄のある演技をされると・・・。

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