2010年09月17日 01:08
無名の南画家 著者・加藤一雄 三彩社 (初出 雑誌『南画鑑賞』 1941年)
![2010091711033581a[1]](https://blog-imgs-31-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20110413181548f47s.jpg)
内容は、主人公「私」が小学校の終わりから中学の初級にかけて交流のあった、一風変わった家庭教師を回想するというもの。
その家庭教師が“無名の南画家”というわけです。
著者も後記で語っていますが、「随筆とも小説ともつかぬヘンな」小品となっていて、主人公を始め登場人物は全くのフィクションだそうです。
あらすじ。
「私」はすべてのアカデミズムを心の底から軽蔑している祖母によってふたりの家庭教師をつけてもらう。
一人は法明院という寺の離れに住む「大木さん」という近所の理科の大学生。もう一人は大木さんから「ドンキホーテ」と呼ばれている菅靄山先生、つまりその人が貧しい無名の南画家だった。
靄山先生は石屋の横路次で妻も弟子もなく孤独の生活を続けていた。
生徒として弟子のように愛された「私」は靄山先生に漢文と習字を習いに行くが、いつも本題の授業には入らず、仏蘭西復興期の彫刻家ジャン・グージョンを讃め上げたり、子ども相手に芸術論をぶちまける始末。
靄山先生の生活の糧は、某区菓子商連合組合からくる菓子折の包装紙を画くこと。百数十軒の店が各々季節毎に変わった数種の意匠を求めにくる。
そして依頼のたびに、黄大癡のごとき高貴の筆を揮う先生だが、実は、先生の屈託のない頼みやすさと、潤筆料の安さから注文されているだけなのである。
そのようなわけで、先生の作品の殆ど全部は菓子折包装紙として、もうこの世から消えてしまっていた。
十一月の初め、真如堂のお十夜の頃、子どもの「私」から見ても「もうこの世で何もいらぬ」と思うほど美しい大木さんの妻・おさよさんが亡くなってしまう。二十三歳の若さだった。
後年、「私」が学校の先生からボードレールが「美」を歌って、泣きもせず、笑いもせぬもの、と習った時、
一抹投げやりで無関心の風のおさよさんが、法明院の庭先の青葉茂る樹に凭れて有り明けの月を見ている図を思い起こさせた。この時、おさよさんは既に死病を得て、若くして自分の体にも諦めをつけ切っていたのだった。
靄山先生のおさよさんへの追哭も悲痛なものだった。「儂はもう芸術の筆を折る」と言い出すほどに。
一方、妻を亡くした大木さんは猛烈な勢いで勉強を始める。靄山先生との夜の散歩の途次、百万遍に面した化学教室の窓を指して「大木君まだ居残っている」と先生は「私」に教えてくれた。
後年、猛烈な研究の末に、大木さんは無機化学界の泰斗・大木俊吉博士となる。
おさよさんの逝った暮れも過ぎ、春になった頃、靄山先生にとって畢生の大事が起こる。ある成金商人が先生に大作の揮毫を依頼したのだ。
それは南禅寺畔の別荘の座敷を飾る襖絵だった。
もちろん今回の理由も、潤筆料が他の絵描きに比べ問題にならなく安いという点にあった。
が、大木さんと「私」以外に先生を認める存在が現れたこと、それが本来なら先生が嫌うであろう人種の成金であったとしても、寂しい先生を夢中にさせるには充分。
ただ、大木さんが「私」とふたりきりの帰り道、黒谷の山内を歩きながら「靄山あの絵は決して描かんよ」とつぶやく。その言葉が妙に「私」も気にかかる。
先生が大作に筆を下ろす頃、「私」は病気になり、また中学の試験のために勉強もせねばならず、先生の元を遠のく。
そして大文字送り火の翌日、久しく御無沙汰していた先生の元を訪れた。「私」が進行状態をたずねると、先生は画箋紙の巻いたものを畳の上に広げた。
その下絵は、細密な筆で色も丁寧に差してあり、回想している二十年後の今も眼前に見るがごとく記憶するほど素晴らしいものだった。
下絵は四枚からなり、「高瀬川の春」「祇園の夕立」「お辰稲荷の秋」「因幡薬師の雪」と総てを合わせ「京の四季」とも称すべき作品。
声なき筆を揮って市井の喜びを描こうとした絵は、先生の仰ぐハイドンには及ばずとも、陋巷の裡を去来する花朝秋風の情を奏で、「私」は「僕はこの絵が好きです」と正直に批評する。
しかし先生は「そうかのう」と妙に気のない返事をしたきり・・・。
一週間後、「私」は先生に誘われて嵯峨の鯰屋へ夕食を食べに行く。その日、先生は旺んに京都風物の悪口をついていた。京都の風物はあまり柔らかで小型すぎる。男子にとって最も大事な抵抗力というものを感じさせない、と。
若い頃に行った磐城ノ国磐梯山の風景を引き合いに、「これこそ男子の景色、芸術家の揺籃なんじゃ。困難に衝当りはねかえされてまた衝進め。美とは困難の中からつかみとってくるものじゃ」と説く。
「私」は釈然としない。かねて主張するジャン・グージョンの優雅とは正反対。ハイドンの歓喜とも異なる。先生はその瞬間に頭に浮かんだことを主張し、先生の熱烈な「真理」は二三日の寿命に過ぎないのだ。
食事も大いに意気上がった頃、「この間君も褒めてくれた“京の四季”ナ、儂はあれを破り棄てた」と先生が自白した。
その後もいっこうに大作は進捗する様子もない。ある夜、「私」は大木さんと法明院の屋根の上で涼む。
現実生活上にはあれほど単純な靄山先生が、観念の上となると贅沢を欲し芸術理論をぶちまける姿に大木さんは愉快がる。
「僕と知合いになった頃は夫子は池大雅と伊太利音楽とに熱中して居った。見給え今度はボッチチェリと清元ぐらいを組合せるから、そしてまた壊して了うだろう。玩具を沢山持った子が、一体どれで遊んでよいか自分ながら分からなくなるのと同然さ」
「夫子は人間に大切な己惚れ心を持っていないんだね。見給え、その辺のお内儀さんはくさッぱちの児を生んで大いに自慢してるじゃないか。大政治家になるにも、大芸術家になるにも、別に複雑高級な精神機構は要らない。むしろその辺のお内儀さんと同一質度の真理を持ってなきゃならんのだ。唯それを大きく持てばいいのだ、靄山いい年をして何故この簡単な事実が分からんのか」
結局、大作は完成しないまま、先生と「私」が京極に寄席を見に行った折、なぜか先生はそこで聴いた河東節に感興し、鴨なんばんを食べ、銚子を倒し「儂は今夜題材を見付けたぞ。今の河東節でやった白楽天の琵琶行を描くんじゃ。楓葉荻花秋瑟々たる潯陽江を描いてやる」と興奮する。
興奮したまま、遠い夜道を歩いて帰ろうと先生は声高に琵琶行を歌い歩いて行く。先生はあまりにのぼせすぎて新烏丸通りの溝の中へ落ちてしまった。
その翌日から先生は病床につく。もともと肝臓が悪かった上に、溝へはまり悪い風邪をこじらせてしまったのだ。
看護人には先生の家主たる石屋の一人娘で不良少女の「おさん」。気難しい先生もおさんにしなされて、苦い薬を諾々として飲んでいる。
時雨の多い冬、先生は「私」やおさんに命じて本を読ませたりするが、おさんは読み違いなぞ気にかけずどんどん読んでいったりする。
「私」が最後に先生の教えを受けたのは師走も十日の晩。その夜、先生はおさんに坪内逍遙の「マクベス」を読ませていた。マクベス夫人が手に滲みた暗殺の血に悩まされる有名な第五章だった。
「今度もし儂が再び君のごとき少年と生まれ変って来たら、その時こそは 」
おさんが、霙のごとき言葉を浴びせかけた。「先生何どすか、まだ性懲りものう先生は芸術家に生まれ変ってくる積もりでおいやすか」
すると無名の老作家は病苦にやつれた頬に莞爾たる微笑を浮べた。
「そうじゃ。七度人間に生まれてなあ」
年明け早々の朝早く、カラリと晴れ上がった冬の朝日の哀れな中を、おさんは髪も梳かずに駆けつけてきた。そして「私」に先生の訃を伝えた。
先生は真夜中におさんを起こし、「どうも体全体がうたていてならんのじゃ」と苦しげに呟く。
その夜は豪雨ということもあり、おさんが医者を呼ぶのを制し、「御苦労じゃが少しさすって下さらんか」と頼み、おさんが腕をさすっていると、痙攣し、ウゝゝゝと呻吟し、子供のような美しい眼を閉じていった。
不良少女は薄倖の老作家を抱いたまま、大雷雨の中をポトポトと涙を落としながら座っていた。
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内容は、主人公「私」が小学校の終わりから中学の初級にかけて交流のあった、一風変わった家庭教師を回想するというもの。
その家庭教師が“無名の南画家”というわけです。
著者も後記で語っていますが、「随筆とも小説ともつかぬヘンな」小品となっていて、主人公を始め登場人物は全くのフィクションだそうです。
あらすじ。
「私」はすべてのアカデミズムを心の底から軽蔑している祖母によってふたりの家庭教師をつけてもらう。
一人は法明院という寺の離れに住む「大木さん」という近所の理科の大学生。もう一人は大木さんから「ドンキホーテ」と呼ばれている菅靄山先生、つまりその人が貧しい無名の南画家だった。
靄山先生は石屋の横路次で妻も弟子もなく孤独の生活を続けていた。
生徒として弟子のように愛された「私」は靄山先生に漢文と習字を習いに行くが、いつも本題の授業には入らず、仏蘭西復興期の彫刻家ジャン・グージョンを讃め上げたり、子ども相手に芸術論をぶちまける始末。
靄山先生の生活の糧は、某区菓子商連合組合からくる菓子折の包装紙を画くこと。百数十軒の店が各々季節毎に変わった数種の意匠を求めにくる。
そして依頼のたびに、黄大癡のごとき高貴の筆を揮う先生だが、実は、先生の屈託のない頼みやすさと、潤筆料の安さから注文されているだけなのである。
そのようなわけで、先生の作品の殆ど全部は菓子折包装紙として、もうこの世から消えてしまっていた。
十一月の初め、真如堂のお十夜の頃、子どもの「私」から見ても「もうこの世で何もいらぬ」と思うほど美しい大木さんの妻・おさよさんが亡くなってしまう。二十三歳の若さだった。
後年、「私」が学校の先生からボードレールが「美」を歌って、泣きもせず、笑いもせぬもの、と習った時、
一抹投げやりで無関心の風のおさよさんが、法明院の庭先の青葉茂る樹に凭れて有り明けの月を見ている図を思い起こさせた。この時、おさよさんは既に死病を得て、若くして自分の体にも諦めをつけ切っていたのだった。
靄山先生のおさよさんへの追哭も悲痛なものだった。「儂はもう芸術の筆を折る」と言い出すほどに。
一方、妻を亡くした大木さんは猛烈な勢いで勉強を始める。靄山先生との夜の散歩の途次、百万遍に面した化学教室の窓を指して「大木君まだ居残っている」と先生は「私」に教えてくれた。
後年、猛烈な研究の末に、大木さんは無機化学界の泰斗・大木俊吉博士となる。
おさよさんの逝った暮れも過ぎ、春になった頃、靄山先生にとって畢生の大事が起こる。ある成金商人が先生に大作の揮毫を依頼したのだ。
それは南禅寺畔の別荘の座敷を飾る襖絵だった。
もちろん今回の理由も、潤筆料が他の絵描きに比べ問題にならなく安いという点にあった。
が、大木さんと「私」以外に先生を認める存在が現れたこと、それが本来なら先生が嫌うであろう人種の成金であったとしても、寂しい先生を夢中にさせるには充分。
ただ、大木さんが「私」とふたりきりの帰り道、黒谷の山内を歩きながら「靄山あの絵は決して描かんよ」とつぶやく。その言葉が妙に「私」も気にかかる。
先生が大作に筆を下ろす頃、「私」は病気になり、また中学の試験のために勉強もせねばならず、先生の元を遠のく。
そして大文字送り火の翌日、久しく御無沙汰していた先生の元を訪れた。「私」が進行状態をたずねると、先生は画箋紙の巻いたものを畳の上に広げた。
その下絵は、細密な筆で色も丁寧に差してあり、回想している二十年後の今も眼前に見るがごとく記憶するほど素晴らしいものだった。
下絵は四枚からなり、「高瀬川の春」「祇園の夕立」「お辰稲荷の秋」「因幡薬師の雪」と総てを合わせ「京の四季」とも称すべき作品。
声なき筆を揮って市井の喜びを描こうとした絵は、先生の仰ぐハイドンには及ばずとも、陋巷の裡を去来する花朝秋風の情を奏で、「私」は「僕はこの絵が好きです」と正直に批評する。
しかし先生は「そうかのう」と妙に気のない返事をしたきり・・・。
一週間後、「私」は先生に誘われて嵯峨の鯰屋へ夕食を食べに行く。その日、先生は旺んに京都風物の悪口をついていた。京都の風物はあまり柔らかで小型すぎる。男子にとって最も大事な抵抗力というものを感じさせない、と。
若い頃に行った磐城ノ国磐梯山の風景を引き合いに、「これこそ男子の景色、芸術家の揺籃なんじゃ。困難に衝当りはねかえされてまた衝進め。美とは困難の中からつかみとってくるものじゃ」と説く。
「私」は釈然としない。かねて主張するジャン・グージョンの優雅とは正反対。ハイドンの歓喜とも異なる。先生はその瞬間に頭に浮かんだことを主張し、先生の熱烈な「真理」は二三日の寿命に過ぎないのだ。
食事も大いに意気上がった頃、「この間君も褒めてくれた“京の四季”ナ、儂はあれを破り棄てた」と先生が自白した。
その後もいっこうに大作は進捗する様子もない。ある夜、「私」は大木さんと法明院の屋根の上で涼む。
現実生活上にはあれほど単純な靄山先生が、観念の上となると贅沢を欲し芸術理論をぶちまける姿に大木さんは愉快がる。
「僕と知合いになった頃は夫子は池大雅と伊太利音楽とに熱中して居った。見給え今度はボッチチェリと清元ぐらいを組合せるから、そしてまた壊して了うだろう。玩具を沢山持った子が、一体どれで遊んでよいか自分ながら分からなくなるのと同然さ」
「夫子は人間に大切な己惚れ心を持っていないんだね。見給え、その辺のお内儀さんはくさッぱちの児を生んで大いに自慢してるじゃないか。大政治家になるにも、大芸術家になるにも、別に複雑高級な精神機構は要らない。むしろその辺のお内儀さんと同一質度の真理を持ってなきゃならんのだ。唯それを大きく持てばいいのだ、靄山いい年をして何故この簡単な事実が分からんのか」
結局、大作は完成しないまま、先生と「私」が京極に寄席を見に行った折、なぜか先生はそこで聴いた河東節に感興し、鴨なんばんを食べ、銚子を倒し「儂は今夜題材を見付けたぞ。今の河東節でやった白楽天の琵琶行を描くんじゃ。楓葉荻花秋瑟々たる潯陽江を描いてやる」と興奮する。
興奮したまま、遠い夜道を歩いて帰ろうと先生は声高に琵琶行を歌い歩いて行く。先生はあまりにのぼせすぎて新烏丸通りの溝の中へ落ちてしまった。
その翌日から先生は病床につく。もともと肝臓が悪かった上に、溝へはまり悪い風邪をこじらせてしまったのだ。
看護人には先生の家主たる石屋の一人娘で不良少女の「おさん」。気難しい先生もおさんにしなされて、苦い薬を諾々として飲んでいる。
時雨の多い冬、先生は「私」やおさんに命じて本を読ませたりするが、おさんは読み違いなぞ気にかけずどんどん読んでいったりする。
「私」が最後に先生の教えを受けたのは師走も十日の晩。その夜、先生はおさんに坪内逍遙の「マクベス」を読ませていた。マクベス夫人が手に滲みた暗殺の血に悩まされる有名な第五章だった。
「今度もし儂が再び君のごとき少年と生まれ変って来たら、その時こそは
おさんが、霙のごとき言葉を浴びせかけた。「先生何どすか、まだ性懲りものう先生は芸術家に生まれ変ってくる積もりでおいやすか」
すると無名の老作家は病苦にやつれた頬に莞爾たる微笑を浮べた。
「そうじゃ。七度人間に生まれてなあ」
年明け早々の朝早く、カラリと晴れ上がった冬の朝日の哀れな中を、おさんは髪も梳かずに駆けつけてきた。そして「私」に先生の訃を伝えた。
先生は真夜中におさんを起こし、「どうも体全体がうたていてならんのじゃ」と苦しげに呟く。
その夜は豪雨ということもあり、おさんが医者を呼ぶのを制し、「御苦労じゃが少しさすって下さらんか」と頼み、おさんが腕をさすっていると、痙攣し、ウゝゝゝと呻吟し、子供のような美しい眼を閉じていった。
不良少女は薄倖の老作家を抱いたまま、大雷雨の中をポトポトと涙を落としながら座っていた。
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