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島原(嶋原) その1

2011年02月14日 00:38

島原(嶋原)


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嶋原傾城町は朱雀野にあり、此所上古は鴻臚館の地なり、中頃は歓喜寿院の封境にして、西口の畠の字を堂の口といふ。又傾城郭は万里小路〔今の柳馬場なり〕二条の南方三町なり。其先は東山殿〔義政公〕遊宴の地なり。天正十七年原三郎左衛門林又一郎といふ浪人上訴によつて、傾城町を免許せられ、一の郭をひらきしなり。地名を新屋敷と号し、又柳の双樹あれば柳町とも称す。〔今の出口の柳は此遺風なり〕其より十三年を経て慶長七年に六条へうつされ、今の室町新町西洞院五条橋通の南にて方貳町の郭なり、中に小路三通ありしにより三筋町と号す。〔六条通(今の魚棚なり)西洞院川にかくる石橋は、傾城町の入口にして此時かけ初しなり、今にあり。又室町五条の南西側醞匠の居宅異風なり、此時の忘八にして今に存せり〕
又寛永十八年に今の朱雀野へ移さる。島原と号ることは、其頃肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を起し動乱に及ぶ時、此里もこゝにうつされ騒しかりければ、世の人島原と異名つけしより遂に此所の名とせり。

〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 嶋原〉


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島原は下京区にある花街で、「嶋原」とも書きます。現在、営業している茶屋は輪違屋のみ。かろうじてイベント化した太夫道中が花街・島原としての体裁を保っているという厳しい状況にあります。

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もともとは、1589(天正17)年に現在の二条柳馬場に、豊臣秀吉の肝いりで「柳町」として公許の遊郭が設けられたのが始まりです。
この遊廓は1602(慶長7)年に二条城の造営に伴い六条付近に移され「三筋町」と呼ばれ、吉野太夫などの名妓を輩出しました。
ところが、さらに1641(寛永18)年にはかつて東鴻臚館のあった現在の地に移転が命じられ、今に至るのです。

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地名「島原」の由来は、移転の数年前に九州で起こった「島原の乱」(寛永14年~15年、天草四郎を首謀者として起こった一揆)にちなみます。正式な地名は「新西屋敷」という現在地への移転騒動が、遠く九州で起こった島原の乱と同じように騒々しかったことから名付けられたのです。


京都の花街の中でも、もっとも格式が高く、元禄時代にはたいそう栄えた島原ですが、都の中心部から離れた不便さと、格式の高さが災いし、次第に祇園や上七軒に人が流れていきます。

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明治以降は花街といえど、赤線の色彩が色濃くみられ、この町が、本当の打撃を受けたのは、やはり昭和33(1958)年4月の売春防止法の施行でした。
揚屋(現在の料亭)と置屋は売春防止法の対象とはならなかったものの、当時の島原の八割は赤線業者で占められていたといいます。

四月一日、百軒あまりの店が一せいに灯を消し、五百人近い接客婦が街の中へあふれていった。売防法の嵐は、暫く鳴りもやまず廓の中をふきまくった。現実は予想以上にきびしく、違反者は容赦なく検挙された。半年もたたないうちに赤線地帯は昔の面影をすっかり失って、アパートや、学生下宿や、友禅工場に模様がえしていった。客足がしだいに遠のき、赤線と並立していた揚屋も巻き添えをくって、開店休業のような有様だった。(中略)祇園や先斗町は観光ブームにのって、新しい繁栄を約束されたが、どこでもおなじと言うわけにはゆかなかった。色町が、色町らしいふんいきを失ってしまうと、ときたま訪れる馴染客も派手なあそびをしなくなった。
(川野彰子著「凋落」より)


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昭和後期になると、お茶屋、太夫、芸妓の数が激減し、お茶屋組合も解散。
現在は観光名所と化した「大門」「輪違屋」「角屋」が当時の面影をとどめているにすぎません。





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