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吉田神社 節分祭 その2

2011年02月03日 01:29

しかし、吉田神社の節分祭の見どころは、これだけではありません。
やはり「大元宮」に足を向けないとね。

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南に位置する大元宮は吉田神社の末社の一つですが、祭神は“天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)”。ひらたく言えば3132もの全国の神を祀っているのです。
つまり、このお社にお参りすると、全国の神社に詣でたのと同じ効験がある、ということ。

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〈延喜式に記載されている社の全3132座を祀り、八角形の本殿に六角の後房を付けた、特異な形状(重要文化財)〉

大元宮の内部拝観は、正月三が日、節分祭の2月2日、3日、そして毎月1日のみですので、この機会は逃せませんね。


吉田神社と言えば、かの『徒然草』の作者・吉田兼好もこの神社の神官の家系に生まれたことでも有名。

そもそもは、いにしえより藤原氏の氏神として崇拝されてきた神社ですが、室町時代の末期になって状況は一変します。
吉田兼倶(永享7(1435)年―永正8(1511)年)が吉田神道(唯一神道)を創設し、その拠点として文明16(1484)年には、境内に末社・斎場所「大元宮」を創建、現在の吉田神社の形として整えました。

近世初めには吉田兼見(天文4(1535)年―慶長15(1610)年)が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(天皇を守護する八神を祀る神殿)を境内の斎場に移し、これを神祇官代としました。つまり吉田家が全国の神官の任免権を一手に握り、明治になるまでは“神職界の宗家”と崇められるほどに大きな権威を持っていたのです。


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本殿は「正面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造の茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後に鰹木を置く特殊な構造」です。この形は神仏習合、陰陽五行などあらゆる説を融合しようとした吉田神道の理想をあらわしたもの。


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〈本殿のまわりには、全国の社がならんでいます〉


DSC03640.jpg 〈八神殿のあった場所〉

本殿の後方にはかつて八神殿(天皇を守護する八神を祀る神殿)がありました。
本来は宮中にあったものが応仁の乱で焼失してしまい、その後、吉田神社のこの地に遷され、明治2(1869)年に再び皇居に遷されたのです。

都名所図会『神楽岡吉田社』
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 神楽岡吉田社〉





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