中書島 その1

2011年02月11日 01:46

1958(昭和33)年の売春防止法施行から50年。あたりは住宅街となり、わずかに残る建物から、この地がかつて遊郭であったということが偲ばれます。


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現在の中書島の駅前は、昭和チックな飲み屋街です。


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駅前の銭湯はその名も「新地湯」。


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まっすぐ行けば「寺田屋」、右に曲がると「長建寺」。

豊臣時代、すでに某大名がここに下屋敷を構えていたが、その後は永いあいだ荒れ果てて蓬々と葦の茂った廃島になっていたという。ところが徳川中期、ようやく淀川筋の舟便が賑い始めるにつれ、抜目のない土地の顔役達が伏見奉行に取りいり、目先に船着場を捉えたこの島の中へ近在の色町を一まとめにして移したのが、この廓の起こりだった。元禄十三年のことだ。以来この廓は幕府公認の全国二十七廓の一つとして賑いつづけ、維新にいたった。(『廓』第一部・第一章より)


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わずかながら、昔を想わせる建物がちらほらと・・・。


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モダンと伝統が、狭い道を挟んで向かい合って残る貴重な一郭に遭遇です。

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屋号の「花柳」の文字が見えます。擬宝珠風のついた二階出格子。えもいわれぬ遊郭建築。

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エンジ色と紺色のタイル使いは斬新すぎます。その隣は壁一面に電球のソケットが。


DSC02071[1] 〈月桂冠の酒蔵〉


DSC02080[1] 〈弁天寺こと建長寺の門〉

廓の東南隅に草深くひろい境内をもった弁天寺――
真言宗醍醐派の末寺で、古く慶長年間に建立されたままだ。当時まだ廓のなかったせいもあり、この寺の表門は廓とは反対側の川沿いの土堤道にあった。何かあの、お伽話の竜宮城の水門を想わせるような赤壁の楼門造りで、欄干には波に踊る竜の彫り物が見うけられた。(『廓』第一部・第四章より)

DSC02088[1] 〈建長寺の境内〉

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いつの頃からか廓の顔役達は弁天寺と結託して、毎年七月二十二日の夜に行われるこの寺の夏祭を、舟を主として華麗な水上の祭として伏見名物の一つに仕上げていたのだ。けだし中書島という廓の客引と宣伝をかねた最上の催しには違いなかった。寺は廓女達の哀れな溜息のつき場所でありながら、一方ではおよそ大がかりな手引婆の役割をも果たしていたのである。(『廓』第一部・第四章より)






コメント

  1. ぽん | URL | -

    中書島も、もうほんまにこの一角だけですね。このタイル貼りのお家、アーチ型の窓や色づかいもさることながら、用水路までお洒落にデコしてあるのが好きです。

  2. ひろし | URL | AJPTr9q2

    はじめまして

    廓は、ずいぶん前に読みました。
    とくに戦後の米兵のくだりはリアリティ-がありますね。
    伏見大手筋に勤務したことがあり、中書島は懐かしいです。

  3. miyakotenjin | URL | -

    ぽんさん、こんにちわ~

    もう中書島界隈には、ぽんさんの好きそうな雰囲気は残念ながら残っていませんねえ(泣)。
    しっかし、アーチ型の窓の意匠や壁一面に電球をほどこす発想は、どこからくるのでしょう・・・。
    隣のタイルの紺とエンジの色使いなんて、今どき、ど派手なサッカーのユニフォームくらいでしか目にしないですよ(笑)。

  4. miyakotenjin | URL | -

    ひろしさん、はじめまして~

    おお、『廓』を読まれましたか(驚)。米兵と遊郭・・・何とも異様な光景ですが、戦後すぐは珍しくなかったようですね。
    大手筋はそう昔と変わらないのでしょうが、「竜馬通り」あたりは、最近やけにコジャレた感じになっています・・・。

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