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美しさと哀しみと その1

2011年06月16日 23:53

美しさと哀しみと 川端康成 1965年 

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『美しさと哀しみと』の初出は1961(昭和36)年1月から1963(昭和38)年10月まで連載された『婦人公論』。
1965(昭和40)年には中央公論社から単行本が出版され、同年、映画にもなりました(監督・篠田正浩、松竹)。

この作品の執筆時期は、川端康成の代表作である『眠れる美女』(1960年1月から1961年11月まで『新潮』に連載)や、『古都』(1961年10月から1962年1月まで『朝日新聞』に連載)の執筆時期と重なります。

文庫本のあとがきで文芸評論家・山本健吉が書いていますが、当時の出版業界では書き下ろしでの長編・中編が書かれるための条件が揃っておらず、雑誌への連載というかたちでしか長編を完成させることができなかったという事情があったそうです。
文豪といえども厳しい創作環境で、これらの作品をつくっていたとは驚きです。そして、時に、川端康成は還暦を超えていました。


この『美しさと哀しみと』は、川端作品の中でも、さして評価は高くないようです。

川端康成の作風は、叙情的な日本を描くスタンダードな作品から、エキセントリックな作品まで幅広く、
たとえば、スタンダードな作風で名作とされているのが『伊豆の踊子』『雪国』『古都』あたりだとするならば、エキセントリックな作風では『眠れる美女』が代表作、ということにでもなるのでしょうが・・・。本作はしいて言うなら“風変わり”の方に分類出来る一作です。


さて、そのあらすじは・・・。


鎌倉に住む作家・大木年雄はすでに妻子ある31歳の時、16歳の女学生・上野音子と関係を持つ。
そして音子は大木の子を流産し、そのショックから精神を患った。
心配した音子の母親により、大木の元を離れ、京都に移り住み、40歳となった今では画家として生計を立てるまでになっていた。

大木は音子との関係を私小説として発表し、小説家として名声を得ていた。
そんな大木が音子の元へと久しぶりに逢いに来た。
しかし、音子は二人きりで逢うつもりはなく、美しい女弟子の坂見けい子が付き添う。

音子とけい子は単なる師匠と弟子の関係ではなく、同性愛に近い愛情関係で繋がっていた。
そして、けい子は愛する音子をおとしめ辱めた大木に復讐すべく、彼に近づく。

京都から大木の住む鎌倉まで自作の絵を持って行き、彼を誘惑し、一晩をともに過ごす。
さらには大木の息子で大学講師を勤める太一郎までをも誘惑し・・・。



残念ながら、川端作品の中では、よくできた小説とは言えないです。

小説中に出てくる、太一郎が父親に語る「和宮の墓を発掘したときのエピソード」。その話自体には面白みがあるものの、本文中に持ち出す意味があるのかどうか・・・。

さらには、けい子が大木とも息子・太一郎とも関係を持ちますが、大木には決して左の胸を触らせず、太一郎には右の胸を触らせず・・・? しかもその理由を最後まで明らかにしません。

そしてなんと言っても、音子の行動や感情が宙ぶらりんすぎるのです。
けい子に復讐をさせたいのか、させたくないのか。大木にいまだ未練を持っているのか、いないのか。けい子に同性以上の愛情を持っているのか、いないのか・・・。



官能に走るのならもっと官能的に、狂気に走るのならもっと狂気に、振り切って描ききれなかったところが、評価の低さに繋がっているのではないでしょうか。





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