詩人 天野忠 その5

2010年09月02日 00:10

天野忠が多臓器不全で亡くなったのは、1993年10月28日でした。
折しも、その数時間後には、サッカー日本代表がワールドカップ出場を逃した「ドーハの悲劇」がおこっています。
もちろん翌日のどの新聞にも、この悲劇が大きく取り上げられていましたが、
天野忠が数多くの随筆を残した京都新聞では、大野新氏のコメントとともに社会面で大きく訃報が伝えられていました。

天野忠 京都新聞記事_20100831201036 〈訃報を伝える京都新聞〉


天野忠の雑記を書くにあたって、ふらっと左京区下鴨の北園町93番地へ足を向けてみました。
洛北高校の北、北白川疎水の桜並木を横切り、さらに北へ上がった北泉通を曲がったすぐのところです。
山田稔氏の『北園町九十三番地』では番地が飛び地になっていて、さがすのに難儀した様子が描かれていましたが、
その場所はすぐに見つかりました。

下鴨北園町_20100831204433 〈下鴨北園町の交差点〉

いや、場所が見つかっただけでなく、なんと天野家を見つけてしまったのです。
まさか、17年前に家主を亡くした、つつましやかな平屋がまだ残っているなんて思ってもいませんでした。
鴨居につけられた横長の門灯に「天野」とペンキの筆字で書いた狭い格子戸があり、その奥には細い生け垣の路地がつづいていました(山田氏の文章では「横長の蛍光灯の門灯に『あまの』と、薄れかかった黒い文字で小さく記されている」とありましたが、今は漢字表記になっていました)。
東隣は空き地になって草が生い茂り、そのおかげで路地の奥の天野家が、
本当に質素な平屋だということが表通りからもわかります。
路地奥の家の玄関の戸は、風を通すためか開いていて、薄い玄関カーテンが盛夏の弱い風にかすかにそよいでいました。
まだ、ご家族がお住まいなのか、と少し・・・いや、かなりびっくりしたものです。

日差しが奪われるかもしれないと、晩年、天野忠が再三気にかけていた南隣のマンション計画は杞憂に終わったようです。
どこにも、マンションの影はなく、酷暑の日差しがその平屋を照りつけていました。


天寧寺山門_20100831205309 〈天野忠の墓がある天寧寺の山門〉

天野忠のお墓は寺町鞍馬口を下がった天寧寺にあるそうです。
豊臣秀吉が応仁の乱で荒廃していた京の町を区画整理する際、鴨川の西に寺を並べたあの寺町通りの最北にある曹洞宗のお寺です。
山門の説明には、「山門を通して眺める比叡秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は『額縁門』とよばれて親しまれている」とありました。
おそらく、比叡を眺める日差しの絶えない、風通しのいいお墓なのでしょうね。もう日光が遮られる心配はなさそうです。

寺町通り_20100831210138 〈寺町通り〉






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