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西陣京極 千本中立売 その1

2011年01月07日 00:16

京都の町は碁盤の目になっていることもあって、住所を説明する場合、町名や番地だけでなく、縦横の通り名であらわすことが通例です。
「四条河原町」「西大路御池」「堀川今出川」などなど。
そしてその交差点を中心に「上がる」「下がる」「西入る」「東入る」で東西南北の方角を指し示すのです。わかりやすいでしょう?

たとえば大阪の地名では谷町九丁目を谷九(たにきゅう)なんて略したりもしますが、京都ではこの長ったらしい通り名を略すことは、まずありません。一カ所だけを除いては、ね。

その唯一と言っていい例外が、千中(せんなか)。そう、千本中立売(せんぼんなかだちうり)です。


20110105181540dc6[1] 〈千本中立売の交差点〉


千本通りと中立売通りの交わる場所、通称・千中が往年の京都の歓楽街の中心地だったなんて、今の若い人は信じることができませんよね(書いている自分だって知らないです)。

昔は「千ぶら」といって、千本通りの、北は今出川通りから南は丸太町通りまでの1.2kmほどを散策することが流行ったそうです。“千本をぶらぶら”で「千ぶら」です。


201101051815099e8[1]


特に、千本通り一帯の中でも、今出川通りから上長者町通りにかけた長さ約700mの現在の「西陣千本商店街」付近(すこし昔までは「千本ラブ」なんて名前が付いていましたね)は、新京極と並ぶ歓楽街として人の波で溢れていたといいます(新京極に比べれば、かなり庶民的だったとか)。


この地が歓楽街として栄えたのには、いくつかの理由が挙げられます。地元織物業の好景気、映画館の存在、交通の利便性・・・など。

そもそも西陣は日本有数の織物産地として栄えていましたが、特に戦後になると未曾有の糸ヘン景気が到来しました。織物業に従事する職人の多くもその恩恵にあずかり、休日や夜には気分転換と称して多くのお金を落としたことでしょう。

そして、日本映画の父・マキノ省三(1878(明治11)年―1929(昭和4)年)が座主をつとめていた千本座をはじめ、後に映画館となる芝居小屋がいくつか存在し(千本座は、千本一条を上がったところにある現在の「無印良品」の場所に建っていました)、歓楽街としての素地は既に出来上がっていました。最盛期(昭和30年代後半頃まで)には20軒近くもの映画館が存在するほどに。

また、当時の京都の交通を語る上で欠かせない市電の存在があります。この界隈に乗り入れた市電として、北野線(1895(明治28)年~1961(昭和36)年)、千本線(1912(明治45)年~1972(昭和42)年)、今出川線(1912(大正元)年~1976(昭和51)年)と、3つもの路線が通っていたことも町の発展には幸いしたようです。


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〈中立売り通りから千本通りを眺める。かつては市電の北野線が走り、「市電通り」とも呼ばれていました〉


さらにもう一つ、水上勉の『五番町夕霧楼』や、三島由紀夫の『金閣寺』で有名な「五番町」は千本中立売の西南にあり、この北野天満宮の門前茶屋から発展した赤線地帯の存在が町の賑わいに果たした影響も大きかったことでしょう。


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〈千本中立売より一筋西のこの通りが、五番町への入り口でもありました。写真にうつっている雲水さんは妙心寺か等持院のお坊さんでしょうか(笑)〉





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