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方広寺 大仏殿 その2

2011年01月20日 01:07

天正14(1586)年、天下を統一した豊臣秀吉の命により奈良東大寺を凌ぐ大仏殿の造営が開始されます。造営の際、物資輸送ために掘削されたのが高瀬川で、文禄4(1595)年に大仏殿は完成しました。

大仏殿は高さ約49メートル、東西廿七間(約54メートル)、南北四十五間(約88メートル)という壮大なもので、境内は現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含むものであったと伝えられています(2000年の発掘調査で東西約55メートル、南北約90メートルの規模であったことが判明しています)。

大仏殿の中には、高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏が安置されますが(奈良の東大寺大仏は高さ約14.7メートルです)、慶長元(1596)年に起きた大地震で、開眼前の大仏が倒壊します。 さらに不幸は重なり、慶長3(1598)年には秀吉が法開眼要を待たずに逝去し、同年、大仏のない大仏殿で開眼法要が行われたそうです。

子の秀頼が倒壊した大仏の再建を試みますが、慶長7(1602)年、鋳物師の過失により出火し、建造中であった銅製の大仏そのものが溶解。しかもその時、大仏殿も炎上してしまいます。

しかし、秀頼は豊臣家の名誉にかけてこの事業を諦めません。懲りずに慶長15(1610)年から再建に着手し、慶長19(1614)年に大仏殿と銅製の大仏がようやく完成しました。

ところが・・・、慶長19年4月、大仏殿の落慶にあたり梵鐘が完成し、落慶法要を行おうとしたところ、梵鐘の銘文について徳川幕府から異議が唱えられ、法要は延期されます。

20101230050759a2e[1] 〈方広寺の梵鐘〉

梵鐘にあった銘文の中の“国家安康”“君臣豊楽”の文言が、家康の諱を分断し、豊臣家の繁栄を願うという徳川家に対する呪詛であるとの言いがかりをつけられたのです。これが豊臣家滅亡に繋がる「大坂の役」の原因となった「方広寺鐘銘事件」です。

2010123005090882f[1] 〈梵鐘の銘文〉

ちなみに、現存する梵鐘は当時のもので、徳川幕府によって潰されることはありませんでした。重要文化財として、東大寺、知恩院の梵鐘とあわせて、日本三大名鐘のひとつとなっています(現在、方広寺は豊国神社の北にありますが、見るべきものといえばこの鐘くらいなものです)。

20101230050801589[1]

大仏殿および大仏の再三の造営頓挫によって、栄華を極めていたはずの豊臣家は莫大にあった資金を減らし、さらには徳川の怒りを買う鐘銘事件を引き起こし・・・、見栄を張ったばかりに、まったくもって災厄でしたね。
まあ、ひるがえってみると、徳川幕府にとっては、大仏のご加護とも言えますが(苦笑)。


さて、その後の大仏ですが・・・、

寛文2(1662)年の地震で大仏は破損し、木造で造り直されます(壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に使われたのだとか)。

さらに、寛政10(1798)年7月には大仏殿が落雷を受け、大仏のほかに本堂・楼門も焼失しました。
「京の 京の 大仏つぁんは 天火(てんび)で焼けてなぁ 三十三間堂が焼け残った ありゃ ドンドンドン こりゃ ドンドンドン」という童歌は、この時の火災のことを歌っています。

江戸後期の天保年間には、旧大仏を縮小した肩より上だけの木造の大仏と仮殿が有志により寄進されますが、それも昭和48(1973)年3月28日深夜の火災によって焼失しました。それ以降は、造られることなく現在に至っています。






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