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詩人 天野忠 その4

2010年09月01日 23:59

いっとき、朝日新聞の短歌欄「朝日歌壇」にホームレスを名乗る公田耕一という人物が続けて掲載され、話題になりました(最近は見かけないですね・・・)。
もちろん詩の嫌いな自分が、短歌を好むわけもないのですが、なぜかこの公田耕一という人の一連の短歌には、他の“第二文学”的な短歌とは違う印象を受けたものです。
この人は(本当にホームレスかどうかは知らないですが)生活に根ざし、しかもホームレスという末端の生活からの呟きだったからこそ、その生の生臭さみたいなものを人々は無視することが出来なかったのでしょう。

公田耕一氏の短歌を少し記してみます。
七分の至福の時間寒き日はコイン・シャワーを一身に浴ぶ
(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす
百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞
パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
胸を病み医療保護受けドヤ街の柩のやうな一室に居る
哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣りにはあり

これらの短歌を読んだ時、思い出したのが天野忠の詩でした。何か根底に通じるものがあると思ったのです。
もちろん天野忠のようなノンシャランとしたユーモアの欠片はここにはありませんが・・・。

もし、ヒューマン(human)とユーモア(humor)が同じ語源であるならば、
なんだか、天野忠の詩に自然と惹かれる理由もなんとなくわかってくるような気がしたのです。
恥も幼稚さも老いも、そして人間存在の醜さを含めた、すべての人間味を隠そうとせず、ましてや綺麗な言葉で着飾ろうとせず、それをユーモアに感じさせる天性の素質。
それが天野忠の詩なのだと。

惜しくも公田氏の短歌はヒューマンの本質を垣間見させてはいるけれども、まだそれがユーモアに昇華されていない姿のような・・・。
そして、天野忠の詩はヒューマンを突き抜けたユーモアを見せてくれているところに、その詩の良さがあると。

いやはや、多くの詩人や歌人は公田氏のもつ人間味を表現する力すら持っていないように思うのです。それでは、天野忠に及ぶはずもありませんね(笑)。

河合橋より大文字山_20100831205934 〈河合橋より大文字を望む〉


少年時代の天野忠は読書好きで、夜店のゴザの上の古本あさりが何よりもの楽しみだったそうです。特に立川文庫に熱中していたとか・・・。



「猿飛佐助の一日」


昔の立川文庫が一冊
なじみの古本屋の棚に飾ってあった。
禿頭のおやじが自慢そうに見せてくれた。
五十何年前にもなるが
私はこの立川文庫を愛読し
わけてもこの
猿飛佐助を熱愛したものだ。
土蔵のある空き家の草ぼうぼうの庭で
巧みに忍術の十字を切り
深く印を結び
蝶の如くひらりと身を翻えした……。
今めくった頁に
いきなりこう書いてあった。

   待てよ、俺もはや十才だ
   いつまでも猿や鹿と遊んでいるわけにも
   いくまいて云々……
驚いたことに
わが猿飛佐助は十才で志を立てたのだ。
真田十勇士のリーダー格となり
悪と戦い無法を破り
打ち立てし抜群の手柄その数を知らず
大阪夏の陣で主君と共に
華やかにその最後を全うしたそうな――

   まてよ、私ももう直ぐ七十才だ。
   そろそろ死ぬ前の臍をきめねばならぬ。
   何か見栄えのする仕事を残せぬものか……。
とつおいつ思案しながら
いつも一服するドーナッツ屋へ入り
一杯百円のアメリカン珈琲と
一個七十円のドーナッツを注文した。
それから
孫娘の機嫌とりの土産に
もう二つ
甘い方のドーナッツを注文した。


詩集『讃め歌抄』(1979年5月刊行)より

下鴨神社_20100831203344 〈下鴨神社〉






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