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三条大橋 その2

2010年12月23日 00:53

高山彦九郎(延享4(1747)年―寛政5(1793)年)は、江戸時代中期の勤王思想家です。勤王思想家の先駆者と言ってもいいでしょう。

高山彦九郎00964

13歳で『太平記』に触れ、勤王の志を持ちます。そして、18歳で学者を志し遺書を残して郷里・上野国新田郡(現在の群馬県太田市)を旅立ち、全国各地を遊説して勤王論を説きました。高山彦九郎が遊説していた頃は、まだ明治維新(1868年)の100年前のことです。

その交遊は多岐に及び、公家、武士、学者、文化人、神官、商人、農民などあらゆる階層の人びとと交流し、さらに各地の歴史、習俗などもあわせ、当時の様子を27歳の時から子細な日記に綴っています。最期は47歳の時に筑後国久留米で自刃しました。

その自刃に関しては、謎が多いものの、「尊号事件」が深く関与しているようです。
「尊号事件」とは、「尊号一件」ともいい、第119代光格天皇の実父・閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件なのです。

尊号事件とは・・・
先の天皇に子がいなかったため養子となり即位した光格天皇が、実父よりも位が高くなってしまいます。しかも「禁中並公家所法度」では親王の序列は摂関家よりも下で、天皇の実父が天皇の臣下である摂関家を目上としなければならない逆転現象が起きてしまったのです。
その事態に光格天皇が不満と憂慮を抱き、実父にたいして太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとしたのです。
しかし、「禁中並公家所法度」は徳川幕府が定めた法律です。朝廷と幕府との軋轢が起こるのは目に見えていました・・・。

その際、光格天皇に近侍する公家・中山愛親に知遇を得ていたのが高山彦九郎で、朝廷側のために東奔西走していたのです。その行動が時の老中・松平定信に警戒されることとなり、他の公家とともに高山彦九郎も処罰され、要注意人物として幕府からの監視も続いていた最中に、自刃したのです。

しかし、高山彦九郎の志は残された日記を通じ、吉田松陰をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎、西郷隆盛ら幕末の志士に多大な影響を与えたのでした。

戦前の修身教育を受けていた人たちにとっては、二宮尊徳、楠木正成とならび、馴染み深いようですが、まあ、戦後教育で語られなくなったのも納得ですね・・・。

三条大橋00985
〈蛤御門の変ののち、佐幕派の追っ手から逃れるため、桂小五郎(のちの木戸孝允)が乞食姿に身をやつし隠れ住んだのが、この三条大橋の橋の下でしたね〉


さて、土下座しているように見える高山彦九郎像ですが、これは土下座ではありません。

高山彦九郎は生涯で5度、上洛したとされています。滞在は長くて2、3年、短くて1ヵ月ほどだったとか。
その上洛の際、皇居望拝、つまり皇居である現在の京都御所に向かって拝礼することを欠かさなかったのです。

江戸末期の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ)は「大御門その方向きて橋の上に 頂根突きけむ真心たふと」と歌い、その実直な姿に、勤王の志士たちは高山彦九郎を勤王の心の鑑と仰いだのでした。


現在の銅像は2代目です。1928年に造られた初代は戦時中の金属回収に供出され(尊皇思想家の銅像まで供出しなければならないぐらいに切迫していたのです)、1961年に初代より少し西に場所を移動され造られました。また、三条京阪の工事中は一時、移設され、不要論まで飛び出したようですが、工事終了とともに、“無事”現在の地に戻ってきたのです。

高山彦九郎00967






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