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三条大橋 その1

2010年12月23日 00:49

三条大橋


鴨川に架かる橋の中でも、橋そのものにもっとも風情をもつのは三条大橋です(今回も独断です)。

歌川広重 「東海道五十三次」
〈歌川広重「東海道五十三次 三条大橋」〉

東海道五十三次の西の起点として栄えたこの橋も、いつ頃からこの場所に架かっているのかは定かではありません。室町時代前期には、簡素な橋が架けられていたとも伝わっています。


都名所図会 三条大橋
三条橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして、皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。其銘に曰、洛陽三条之橋、至後代化度往還人、磐石之礎入地、五尋切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代奉増田右衛門尉長盛造之。
『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)


本格的な橋となったのは天正18(1590)年、豊臣秀吉の命により、大名の増田長盛が石柱の橋脚へと大改修を行ってからです。ちなみに増田長盛は、五条大橋の改修も行っています。

その後、鴨川の氾濫でたびたび橋は流失しますが、幕府の管理する“公儀橋”としてすぐに修復されます。都において交通の最重要拠点であったことがうかがえますね。

近年では、昭和10(1935)年6月29日の鴨川大洪水で他の橋とともに、三条大橋も倒壊流失の憂き目に遭っています。

元禄以来、幾たびかの改修を経て、昭和25(1950)年に現在の姿となりました。

三条大橋00956

この橋を印象づける“擬宝珠”には、昭和の改修時に取り付けられたもののほかに、天正時代のものが残されていて、日本でも有数に古い擬宝珠でもあるのです。

三条大橋00973


さて、三条大橋の東、川端通と三条通が交わる交差点を「三条京阪」と呼びますが、平成元(1989)年に京阪鴨東線(三条~出町柳間)が開通するまでは、大阪と京都を結ぶ京阪本線の発着駅でした。さらに、大津方面へは、ここ三条京阪が起点となって京津線と繋がり、バスターミナルとともに20年前までは重要な交通網の要所でした(今では京津線も京都市営地下鉄東西線と相互乗り入れをし、完全なる途中下車の駅となってしまいました・・・)。

まだ交通の要所として機能していた頃にあったのが、三条京阪の歩道橋です。この歩道橋に懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。

「ヒポクラテスたち」000028
〈大森一樹監督『ヒポクラテスたち』(1980年)より〉

映画『ヒポクラテスたち』では、内藤剛志の演じる左翼学生・南田たちが、森永ヒ素ミルク事件に抗議してビラを配る場面として登場します。

「ヒポクラテスたち」000034

そして、古尾谷雅人の演じる荻野愛作が、ビラを配るかつての同志を見つめる場面・・・の後ろには“土下座”する銅像の姿が(笑)。

まだ携帯電話もなかった頃、発着駅となっていた三条京阪で、学生たちが決まって待ち合わせ場所としていたのが、この通称「三条京阪の土下座像」なのです。

少し詳しい人なら、この銅像が「高山彦九郎」なる人物で、林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と称されていることをご存じでしょう。しかし、何をした人物か、まで知っている人は少ないのではないでしょうか。






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