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三月の乾き その2

2011年01月10日 01:05

全共闘の時代、立命館大学は御所の東、広小路に校舎がありました(正確に言うと、新制の理工学部はずっと衣笠キャンパスにあって、1965年に経済学部・経営学部が、1970年に産業社会学部が、1978年に文学部と二部(夜間部)の全学部が、そして1981年に法学部が衣笠キャンパスに移り、全学部の移転が完了します)。

広小路通りは寺町通りと河原町通りの間、わずか100メートルほどの短い道です。
しかし、京都ではこの辺りが京都大学とならぶ運動の激しい衝突の舞台となり、“百万遍”といえば京都大学を指すように、“広小路”といえば、立命館大学を指す言葉として周知されていたようです。


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〈現在の広小路通り。左が京都府立医科大学附属図書館となっているかつての広小路学舎があった場所〉


どの大学もそうだったようですが(幸か不幸か、全共闘時代の知識にあまりに疎いもので、「ようです」や「だそうです」のような不確定語尾が続いちゃいます(泣))、大学の運営側と学生との衝突というよりも、大学の運営を巡る“日共系”と“反日共系”の学生との間で激しく繰り広げられた主導権争いだったのですね。

高野悦子さんも1年間同じ机で学んだクラスメイトから「君は代々木系か反代々木系か」と不信な敵意に満ちたまなざしで詰め寄られ、ショックを受けますが、“代々木系(日共系)”とは代々木(千駄ヶ谷)に党本部を置く日本共産党を指し、“反代々木系(反日共系)”とは、日本共産党の路線に反対する左派を指します。
ちなみに“民青”とは日本民主青年同盟の略で、実質上の日本共産党の青年組織です。また、反代々木系の中にも、いくつかのセクト(派閥)があって、運動が収束するにつれ、同じ反代々木系だった学生同士の内ゲバが目立つようになるのです。ややこしいですね。


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〈河原町広小路の交差点〉


当時の立命館大学は、理事会をはじめ、教授会、学友会、教職員組合から生協にいたるまで、日共系が占める「日共王国」と呼ばれていました。まあ、それはそれである意味、平穏だったそうです。

ところが、立命館で運動が激化する「新聞社事件」が1968年に起こったのです。
「日共王国」の立命館で、唯一、日共色に染まっていなかったのが学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」。日共への批判的立場から週刊で発刊していたこの新聞社は日共にとって、もっとも目障りな存在でした。そんな新聞社に1968年12月12日、突然、民青所属の学生9名が入社申し込みにやってきたのです。
通常、学生新聞の新入社員は4、5月に1回生を対象として採用するのですが、この季節外れの入社希望の民青たちの中には3回生も含まれているという異様さでした。
「学園新聞の民主化」を唱える入社希望者たちの狙いはもちろん、新聞社の乗っ取りだったのです。すぐには採用の選考はできないと断る新聞社主幹に、その日の選考を迫る民青。押し問答の末、進入してきた黒ヘルメットの一団が窓硝子を割り、新聞社員が15時間にわたり監禁される事態に及びます。
この異常事態に接し、これまで日共の一元支配に辟易していた一般学生が立ち上がり、ヘルメットを被って、角材を手にするのです。完全武装の学生600名ほどが新聞社の入る校舎を取り囲むという全共闘時代を象徴するお馴染みの光景が、この時、初めて立命館大学で見られたのでした。


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〈今も残る、かつての「恒心館」。現在は宗教法人の施設「京都救世会館」〉


その後、この事件に対する大学当局の対応も曖昧で後手後手となり、翌1月16日には東大安田講堂の占拠につづき、立命館大学でも寮生が主体となって大学本部の中川会館を封鎖する事態となり(もちろん後には機動隊との衝突も起こりました)、さらに5月20日にはそれまで全共闘も一切攻撃の対象としていなかった民主主義の象徴「わだつみ像」が破壊される悲しい事件も起こってしまったのです・・・。






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