メンゲキ!

2020年09月05日 00:33

メンゲキ! 監督・四季涼 2012年


①メンゲキ


京都人にとってのソウルフードと言えば・・・懐石料理? 湯豆腐? ぶぶ漬け(お茶漬け)? 鱧(はも)? 鯖寿司?
もちろん京都人のソウルフードと言えば、「餃子の王将」とラーメンの「天下一品」です。

その天下一品が創業40周年を記念して、2012年に劇場公開したのが映画「メンゲキ!」。
舞台は東京の台東区。京都もほとんど出てきませんが、京都のあれやこれやを紹介するこのブログが、天下一品の記念企画した映画を取り上げないわけにはいかないですよね。

天下一品の関係者以外、「誰が見るねん」とのツッコミの声も聞こえてきそうですが、作品自体は・・・それほど悪くない(見る前のハードルがすごく低くなっているという理由も大きいのですが)。

企画は俳優の金山一彦さんと、ごぞんじ天下一品の木村勉社長(現会長)。脚本はスピードワゴンの小沢一敬さん。「熱くてあま~い“こってり”青春ラーメンストーリー!!」が映画のキャッチコピーです。

さらに「夢を本気で追ったら、地に足をつけてる暇はない!!」という“熱くてあま~い”キャッチフレーズ兼セリフが、映画の終盤で生きてくるのです。
そして映画の最後には、もちろんお約束のあの人物が・・・。

単なる天下一品のプロモーションではなく、ドラマに仕上がっている点は評価すべきですが、映画にするほどの作品かと言われれば・・・。深夜に天下一品の一社提供でドラマ放送でもしていれば、もっと多くの人に見てもらえたのに、と思わないでもない一作です。


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あらすじは・・・
売れない劇団員の本郷晋之介(青柳翔)は人生の岐路に立つ30歳を前に、恋人である木村美世(AKINA)との結婚を決意する。
京都に住む彼女の両親に結婚のあいさつに赴くが、売れない劇団員とは言えず、雑誌にも取り上げられる有名ラーメン店の店長だと嘘をつく。

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美世が「来月にも取材が来る」と両親に思わず言ってしまったことから、美世の両親が店の様子を見るため、取材当日、上京することに。
晋之介の一大ピンチに、現実との折り合いをつけて役者の道をあきらめた高校時代の演劇部仲間が「お前の夢は、みんなの夢」と協力。部の先輩や、現役部員も加わって、美世の両親に対して同級生の営むラーメン店を舞台に一芝居を打つ。

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しかし作戦当日は、さまざまなハプニングもあって、計画通りに芝居は進まず、美世の両親にも嘘をついていたことがばれてしまう。

売れない役者であることを知られ、「どないして美世を幸せにするんや? 役者やめるんか?」と美世の父親に言われた晋之介。
「ぜったに役者で成功して、美世さんを幸せにしてみせます」
美世の父親「夢を追うのはええことや。夢のない男なんか、しょうもないからなあ。せやけどなあ、地に足つけて生きてないやつが、人を幸せにできるんか?」
晋之介「夢を本気で追ったら、全力で走ったら、地に足つけている暇なんかないんじゃないですか!」

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高校の卒業公演の時は実感がわかず、しっくりこなかった「夢に向かって全力で走っているやつは、地に足つけている暇なんてないんだよ!!」のセリフが自然と出たところで、「今のセリフ、リアルに言ってたぞ!」と仲間や美世の両親も拍手。
実は美世の両親も偽物で寿橋高校演劇部の先輩だったのです。役者人生に迷いが出てきた晋之介を後押しするために、皆で芝居を打っていたのでした。



高校時代の演劇部仲間には白川天馬(天野浩成)、風間凌(秋山真太郎)、赤松広子(小野真弓)。
店の常連で演劇部の先輩には間野甘太郎(金山一彦)。
2011年1月には、天下一品の創業者・木村勉氏の人生を描いた「天下一品物語~すべては屋台から始まった~」が放送されており、その主演を務めたのが金山さんでした。
そのような縁もあったのでしょう、本作品には金山さんが企画を担当して、出演。

映画の最後には、晋之介が出演した舞台の楽屋に来た同級生たちに、美世と結婚することを報告。
晋之介の「美世の本当のお父さん、ラーメン屋さんだったよ」の言葉に・・・もうおわかりですよね(勘のいい方なら、美世の名字が木村さんの時点でお察しでしょう)。

楽屋に登場したのは、木村社長!

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木村社長の「やあ! これからも末永くよろしくね!」の言葉で、大団円!!
これぞ予定調和のカタルシス!
天下一品ファンとしては上映中に誰もが、「どこで木村社長が出てくるの?」「もしかして出てこないの?」と、やきもきしていたのでしょうが、期待は裏切りません。



10年ぶりの旧橋本遊郭

2020年09月07日 23:38


京都府八幡市にある京阪橋本駅には、かつて橋本遊郭がありました。

昭和初期には80軒以上の廓と400人以上の娼妓がいたともいわれ、このブログでも2011年3月に、いまも色濃く当時の街並みの雰囲気を残す遊郭の歴史を紹介しました。

しかし京都と大阪の間にあって、通勤に便利な同地も、近年の駅前の整備と開発の波で、往時の面影が急速に薄れつつあります。

廃墟同然だった3階建ての橋本遊郭旧歌舞練場(近年はアパート「天寿荘」として運営)も解体されて更地となり、付近の遊郭建築も半分ほどは取り壊され、空き地や新しい家屋に建て直されていました。


およそ10年前と現在の風景を比べ、もう一度、往時をしのんでみましょう。


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《今年7月に取り壊された、かつての歌舞練場跡(2011年3月撮影)》



旧歌舞練場跡が、夢の跡といった情景に・・・。

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《「養神」と書かれた碑と、防火水槽だけが残された歌舞練場の跡地(2020年8月撮影)》

この養神碑は1937(昭和12)年に遊廓再興50周年を記念して歌舞練場に建てられたもの。



踏切の西にあり、同地にとっての象徴的アイコンともいえる遊郭建築はまだ建っていましたが、向かいの理髪店や建物は解体され、線路の向こうに見えていた旧歌舞練場も今は見えません。

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《2011年3月撮影》

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《2020年8月撮影》



もう一つの橋本遊郭の象徴でもある黒壁の建物は健在でしたが、隣地は一般住宅と空き地になっていました。

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《2011年3月撮影》

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《2020年8月撮影》



街並みの南にあった橋本湯は、建物は残っているものの、営業は終了しているようです。

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《2011年3月撮影》

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《2020年8月撮影》



全国にある遊郭跡でも、この橋本の街並みは最後まで残るものだと思っていましたが、まあ、時代の移ろいというのはそういうもので・・・。
近隣には大型スーパーもでき、さらに街並みが変われば遊郭建築好きによるカメラのシャッター音のわずらわしさもなくなり、住民の方にとってはもっと住み心地のよい街になるはず。



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黒壁の建物の屋根瓦にいる恵比寿さんは今もお変わりなく。



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駅前の食事処「やをりき」さんは、週に3日間ながらも現在も営業が行われているようです。



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舞妓はレディ

2020年09月13日 22:22

舞妓はレディ 監督・周防正行 2014年


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『Shall we ダンス?』(1996年公開)を手掛けた周防正行監督が、京都の花街で舞妓へと成長していく一人の少女を描く、ミュージカル映画。


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《西郷春子役の上白石萌音》


芸妓や舞妓が仮装する節分行事「おばけ」の日、舞妓が一人しかいなくなった京都の歴史ある花街に、津軽弁と鹿児島弁をないまぜに話す少女・西郷春子(上白石萌音)が舞妓になりたいとやってきた。正座もできない春子は、三味線、長唄、踊りといった修業も満足にこなせず、花街のしきたりに戸惑い、何よりも京都弁がなかなか上達しない。
春子に興味を持った言語学者・京野法嗣(長谷川博己)は、春子の舞妓としての店だし(デビュー)のために手助けしていく。


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《置屋「万寿楽(ばんすらく)」の女将は富司純子》

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《言語学者・京野法嗣(長谷川博己)と、その助手の西野秋平(濱田岳)》

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《置屋の先輩芸妓・里春に草刈民代、先輩舞妓・百春に田畑智子》



映画タイトルは、オードリー・ヘプバーン主演の『マイ・フェア・レディ』のもじり。舞台となる架空の花街の名は“下八軒”。もちろん上七軒をもじって。

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架空の花街を舞台にするなら『舞妓Haaaan!!!』(2007年公開、監督・水田伸生、脚本・宮藤官九郎)ぐらい、フィクションに突き抜けたエンターテイメント作品にしてほしかった。

テレビのノンフィクションでよく放送される、舞妓になるまでの女の子の成長記のほうが、数段、面白みも人間模様の深みもあるように思うのですが。



上七軒をはじめ、知恩院、銀閣寺、隨心院、平安神宮、北野天満宮、清水寺、東福寺、京都府庁などもロケ地となっています。

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《銀閣寺》

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《京都府庁》

祇園でおなじみの「辰巳大明神」のかわりに、「八軒大明神」。

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女の坂

2020年09月15日 21:58

女の坂 監督・吉村公三郎 1960年 松竹


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原作は澤野久雄の小説「五条坂」「愛する権利」。脚本・新藤兼人、監督・吉村公三郎。

「戦後」という言葉も世相も一息ついた1960年。主演の岡田茉莉子が仕事に生きる新たな日本の女性像を演じた一作。
バンダナをまき、赤いVネックのニットに、細身のパンツルックで商用車を運転。ハツラツとした若き女性像を演じる姿は健康的で素晴らしく、この作品は岡田茉莉子の存在あってのもの。

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ただ、残念なのは相手役の佐田啓二。戦前の因習めいた日本の古臭さや、闊達な主人公と対比して、うだつの上がらぬ男像を彼に背負わせていたのなら、演出としての理解もできます。しかし、この役柄の岡田茉莉子を惚れさせる相手としては、優柔不断で、陰気で、あまりに役不足。

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なお、作品としては1960年の美しい京都の街並みを、過剰にではなく自然に見せている点も好印象です。

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あらすじ・・・

元禄時代から続く京都の老舗菓子店「鍵村」では当主が亡くなり、親族でもある若い津川明恵(岡田茉莉子)が相続人として箱根湯本からやってきた。
明恵は当初、京都への都落ちをしぶり、古い暖簾を降ろして洋裁店を開く予定だった。
しかし、古くから鍵村で働いていた谷次(富本民平)が銘菓・京時雨(くずきり)をつくる美しい所作に感動。鍵村の再興を決意する。

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女主人自らが商用車を運転して営業し、次第に店は盛況に。

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商売も軌道に乗ってきたある日、明恵の母・恵子(乙羽信子)が箱根からやってきた。母が伴ってきたのは、かつての母の恋人でもある版画家の矢追三郎(佐田啓二)だった。
舞妓のスケッチをするために京都にやってきた矢追を、鍵村に泊めてやることになる。

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「今のあたしは、恋愛より仕事どす」と友人に語っていた明恵も、結婚で幸せを実感する千穂(高千穂ひづる)や、叶わぬ恋に失望して心中してしまった由美(河内桃子)といった友人の存在もあって、次第に妻も子もある矢追に惹かれ、仕事と恋愛とのあいだで揺れ動く。

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奈良へ仏像スケッチに行った矢追を追いかけるほどに、彼への思いが抑えられなくなった明恵は、東京に住む矢追の妻の元へ向かう。しかし、裏庭に干されていた子どもの洗濯物を見て、京都に舞い戻り、仕事に生きる決心をする。

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矢追の妻に会わずに京都に戻ってきた明恵は、由美の兄が経営する小さなバーで友人の千穂に告白するのです。
「あたしね、本当に奥さんと話し合おうと思って東京に行ったんです。門の前まではそんな気持ちだったけど、裏庭でひらひらとしている洗濯物を見ているとき、なんだか急にそういう気持ちが崩れてしまった。センチなのかしら・・・。センチでもなんでもいいわ。とにかく風船玉がはじけてしまったようになってしまったんですもの。洗濯物って、えらい力持ってるもんやなあ・・・あたし、由美ちゃんみたいに自殺なんかしない。せやけど弱いことあらへん。うち、仕事するねん。お菓子一生懸命つくったる」と。

「洗濯物って、えらい力持ってるもんやなあ」の、言葉の重さと深さと言ったら・・・。


南禅寺や金戒光明寺を歩きながら語らい、矢追へ別れを告げ、鍵村に帰ってきた明恵。店員に「なにしてんの、あんたら。今日は公休と違いまっせ。これ、祇園さん納めるお菓子でしょ。はよ、積まなあかんやないの。はよ! あたしが運転するからね」とはっぱをかけて、急いでいつものパンツルックに着替え、さっそうと車を運転して祇園へと配達に向かう。格好よすぎです。

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五番町

2020年09月17日 09:27

五番町


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五番町は江戸中期に発生した遊郭で、「北新地」や「西陣新地」とも呼ばれていました。

六軒町通仁和寺街道を中心とする五番町、四番町、利生町、白竹町、さらに一番町、三軒町を含んだ区域が色街としての五番町にあたります。
1900年代初頭には100軒を超える貸座敷と400人を超える娼妓を誇り、昭和33(1958)年に赤線が廃止になるまで、京都を代表する遊廓の一つでした。

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天正年間、聚楽第を造営するにあたり、豊臣秀吉が組屋敷を一番から七番まで設けたのが、地名の由来。
享保年間には、北野神社や愛宕詣での客を対象として茶屋ができたことに始まり、後に西陣の職工などの遊散所に。
当時の京都所司代が花街として発展することに危機を感じて何度も取り締まったものの、結局は近くの花街である上七軒の管下として営業を許可しました。

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太平洋戦争前までは、大店の「奥村楼」「三福楼」には芸妓も存在し、芸妓と娼妓が混在する町だったものが、戦後は娼妓のみの色町となり、売春防止法によって当時のお茶屋93軒、娼妓210人は転業を余儀なくされました。


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五番町の名を全国区にしたのは、水上勉の小説『五番町夕霧楼』(1962年)や『金閣炎上』(1979年)、三島由紀夫の『金閣寺』(1956年)です。

昭和25(1950)年7月2日未明に起こった金閣寺放火事件では、同寺の修行僧で大谷大学学生だった21歳の林養賢(法名は承賢)が逮捕されます。
この青年が放火の一週間ほど前に、五番町へ登楼して、妓に「もうすぐ大変なことをやってみせるぞ」と予告していたことが新聞記事になるなど、センセーショナルに報じられたのでした。

この一大事件をめぐっては、三島由紀夫や水上勉の小説のほか、三島の『金閣寺』を原作にして市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)、高林陽一監督の『金閣寺』(1976年、ATG)が製作されました。
一方、水上の同名小説をモチーフに田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』(1963年、東映)、山根成之監督の『五番町夕霧楼』(1980年、松竹)が作られました。


六月十八日の晩、私は金を懐にして、寺を忍び出て、通例五番町と呼ばれる北新地へ行った。そこが安くて、寺の小僧などにも親切にしてくれるということは聞き知っていた。五番町は鹿苑寺から、歩いても三四十分の距離である。(中略)
私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた。自殺を決意した童貞の男が、その前に廓へ行くように、私も廓へ行くのである。

《三島由紀夫『金閣寺』》


五番町は、京都人には「ゴバンチョ」と少し早口で呼ばれる語調をもった、古い色街である。
詳述しておくと、西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向って入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒なみ妓楼だった。

《水上勉『五番町夕霧楼』》


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《主演の市川雷蔵が歩く五番町 市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)》

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《繁華街としてにぎわっていた千本通 田坂具隆監督『五番町夕霧楼』(1963年、東映)》


水上勉は大正8(1919)年に福井の寒村に生まれ、貧困もあって9歳の時に京都の伯父の元に送られ、10歳で相国寺塔頭の瑞春院の小僧となりました。その後、13歳で出奔して等持院に移り、花園中学を卒業する18歳でまたもや脱走して、還俗。立命館大学の夜学に入学したのち、30種以上の職を転々とし、作家として身を立てるのです。

水上勉にとって五番町は、等持院の小僧時代に初めて女性を経験した場所として、終生、忘れられない地名であったことは、『私版 京都図絵』(1980年、作品社)の文章からもわかります。

この町に馴染むようになったのは、十八、九歳からで、恥ついでにいえば、まだ衣笠山等持院に修行中の頃だった。禅寺の小僧が、遊廓とかかわるといえば、ひんしゅくされねばならぬが、私はそういう不良学生であり、破戒僧でもあったわけだから、それをいま、かかわりながなかったというわけにはゆかないのである。私だけではなかったろう。京の禅僧で小僧時代あるいは雲水時代をおくった人の中で、私のように、ひそかに五番町に馴染んだ日のことを遠い暦の根にかくして、買った妓の肌のぬくもりを抱いておられる方はあるはずである。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》



三島由紀夫の『金閣寺』が放火犯の青年僧の金閣なる完全美に対する憧憬と嫉妬といった、青年の内面を主軸に芸術的に物語を作ったのに対し、五番町に足しげく通い、なじみの娼妓が下宿に訪問してくるほどに、この色街を知り尽くした水上勉の『五番町夕霧楼』が、自らや友人の経験をもとに娼妓を中心にして物語を紡いだのは必然でした。
さらに水上勉が、放火犯・林養賢の足跡を精緻に取材し、林や、事件後に投身自殺を図った林の母への鎮魂歌ともいうべき『金閣炎上』を書かざるをえなかったことも、小僧時代を京都で過ごし、彼に少なからずのシンパシーを感じていた水上にとっては必定でした。

私には、林養賢君が金閣寺を焼く内面もあらかた想像できたし、五番町へ通っていたときくと、いずれも、小僧はみな五番町で修行していたのだな、という思いがした。小説の構想がうかんで、実在した遊女の名を「夕子」とあらため、私がよくいった妓楼を「夕霧楼」などと勝手に名をかえて、書いてみたのだった。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》

人間は戒律生活がきびしければきびしいほど破戒を夢みるのである。このような兄弟子を見て、自然と私も感化され、成人したら、必ず五番町へ行ってみたい、という夢が芽生えた。その夢を果たしたのは、十八歳の時で、中学を卒業する年まわりだった。いまでもおぼえているのが、中立売を、千本から西へ入ったひと筋目を降りてくると、右側が寺の墓地の見える土塀になっていて、軒のひくい二階家の妓楼が片側にならんでいた。その中ほどの店で、二階の窓が、とりわけひくく、よごれたガラス障子のはまった楼だった。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》


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《亡くなって身寄りのない遊女を境内に投げ込んだことから「投げ込み寺」とも呼ばれた報土寺》

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《報土寺の墓地の見える土塀》


『私版 京都図絵』の執筆当時、「今日も、往時の町家はのこっていて、散策しても昔とまったく変わらぬ四、五の妓楼の建物があるので、私には懐かしい」と水上勉は振り返っていましたが、今ではほとんどその面影はありません。


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