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岩屋山志明院 その1

2013年08月12日 19:03

賀茂川の上流、北区雲ケ畑にある志明院(金光峰寺)。
号は岩屋山で真言宗系の単立寺院です。

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白雉元(650)年に役行者が創建し、天長6(829)年に弘法大師が淳和天皇の命により再建したと寺伝では伝え、
本堂にある不動明王像は空海の開眼で、根本中院(奥院)には菅原道真の手彫りと伝える眼力不動明王像を安置。

幾多の兵火や火災で、山門を除くほとんどの伽藍が消失しましたが、境内には、歌舞伎『鳴神』で有名な鳴神上人が龍神を閉じ込めたとされる護摩洞窟など修験道ゆかりの史跡が残っています。

歌舞伎『鳴神』とは・・・
朝廷に恨みを持っていた志明院の鳴神上人が、雨を司る竜神を滝壺に封じ込め、都は干ばつ。朝廷は“雲の絶間姫”という美女を遣わし、色気に勝てなかった上人が酒に酔った際に竜神を解き放ち、雨を降らせた。


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〈寺務所(本坊)と山門〉

拝観料は300円で、山門より上の境内は写真撮影禁止ですが、苔むした石段や、巨石からなる護摩窟や神降窟は圧倒的な存在感。

伽藍は明治以降と新しいものばかりですが、まわりの鬱蒼とした森が醸す怪しげな雰囲気は、往時の面影そのままです。

鴨川の水源であることから、いにしえより皇室の勅願所として崇敬を集め、かつては一帯の山林を所有し、明治まではその寺有林の収益で運営が賄われ、勅願寺の権威を守るため、民間の寄進を拒否し、賽銭をあげることも許されなかったのだとか。

4月下旬には京都市の天然記念物である石楠花が境内を彩ります。


志明院 左_R志明院 右_R
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』より〉



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岩屋山志明院 その2

2013年08月12日 19:03

この志明院が広く世に知られるきっかけとなったのは、司馬遼太郎が昭和29年8月に発表したエッセイ「石楠花妖話(しゃくなげようわ)」(未生流家元出版部発行の月刊誌『未生』初出)の存在が大きかったといえます。

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司馬遼太郎は当時、サンケイ新聞の宗教担当記者として、京都に赴任していました(金閣寺の炎上を報じたのも、当時、文化部記者だった司馬遼太郎でした)。

 六月には、全山、石楠花になるという田中院主の話をきいて、とうとう私は重い腰をあげた。
 田中院主の勧誘の内容は、全山石楠花に化すというよりも、千数百年来その寺に住みついている妖怪変化が、二十世紀後半のこんにちなお、健やかに跳梁しているという点に重点があったのだが、いくら私が物好きな新聞記者であったにしろ、そいつは少々、頂きかねた。
 志明院という寺なのである。京の古社寺の研究家でもその名を知っている人は少ないと思うが、寺伝では、少なくとも四百年前までは谷々を埋める坊だけでも四十数軒あったというから、相当な巨刹であったにちがいない。いまはただ、本坊、一宇を止めるだけ。宗派は、真言宗仁和寺派に属している。
 二日間休暇をとった。まさか、妖怪をインタビューしにゆくとはいえないから、石楠花の探勝さとガラにもないことをいった。この風流心に和して、Sという若い記者が同伴を志願してきたから、たとえいかなる妖変に遭おうともキモをつぶすなと因果をふくめ、おともを許してやった。昭和二十五年初夏、小生当時、京都で宗教担当という、新聞記者としては至ってはえばえのない仕事をやっていたころである。


司馬遼太郎が志明院の先の住職と懇意にしていたこともあり、志明院に泊まった時、怪奇現象に悩まされたというエピソードが語られているのです。

こつ然と眼前に小盆地がひらけた。四囲絶壁の中にある小学校のグラウンド程度の平地である。志明院はそこにあった。銅ぶき、白木造。一見、寺院というより鎌倉時代の武家屋敷のような構えである。意外なほど清潔な感じがした。


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田中院主によると、三種類の物の怪が出ると言い、一つは竜火、二つは天狗の雅楽、もう一つは・・・
一晩、本坊を見下ろす茶室に泊まることになった司馬遼太郎とS君でしたが、11時ごろ、障子の桟を力任せにゆする音で目が覚め、屋根の上でシコでも踏むような鳴動が聞こえ始める。
・・・そう、シコを踏んだり、障子をゆすったりする騒がしい妖怪だったのです。


また、同宿していた修験者の上田行者、田中院主とともに、四人は山頂近くにある奥の院を目標に山中を分け入り、先導する上田行者に竜火を見せてもらいます。

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結局、天狗の雅楽だけは聞くことのできなかった、司馬遼太郎とS君でしたが、

 一週間に一度は、山頂の天狗松のあたりから、いんいんと響いてくるそうだ。ショウやヒチリキの音が、あるいは高くあるいは低く、間に太鼓の音をまじえ、階調正しく演奏されるというのだが、寺より十丁下った雲ケ畑では、誰でも子供のころからこの音楽をきいているというから、まずウソではあるまい。

と、町を追われた魑魅魍魎の最後の砦としての志明院の様子がエッセイでは綴られています。

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〈雲ケ畑の林道〉

妖怪が今もいるかどうかはさておき、杉木立の中を蛇行する不便な一本道が、街の喧騒から今も妖怪を守ってくれているようで・・・60年以上前に司馬遼太郎が訪れた当時そのままの雰囲気が今も残っている、ひそやかなお寺なのでした。





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